翻訳|progress
進歩とは本来語源的には〈前に進む〉という非常に広い意味の言葉であった。しかし類語と比べてみると,微妙な差異が認められる。〈進歩〉とは,たんに物体の位置の移動としての〈運動〉とも,物質の状態の変質としての〈変化〉とも異なる。また内蔵された要素のより複雑な展開としての〈発展〉とも異なる。進歩とは,そういった前進運動であるとともに,より高次の状態への価値的な向上を,つまり漸次よくなっていくことを指す。しかも〈進化〉が主として自然界についていわれるのに対して,〈進歩〉とは,すぐれて人間の精神・文化・社会など,人間界についていわれる言葉である。したがって狭義における進歩とは,人間界において,より完全な状態をめざして,価値的に向上していく持続的な前進運動である,と定義することができよう。
この意味での進歩が人類史に関して自覚されるようになったのは,近世,とくに18世紀以降のことであった。それが〈進歩の観念〉である。当初,それは運命観念や回帰的歴史観が支配的であった古代の世界観や,キリスト教的な〈摂理の観念〉に対抗して生まれてくる。中世キリスト教世界におけるように,歴史が神の救済計画に基づく摂理によるところでは,またルネサンスにおけるように,古代の復興がめざされるところでは,人類史は進歩ではありえない。いわゆる新旧論争を経て,近代文化が少なくともその合理的側面に関しては,古代よりも高いところまで到達した,あるいは将来そうなる可能性をもつ,という信念のうえに,はじめて〈進歩の観念〉が成立する。パスカルが人類史を個人の学習過程になぞらえたように,デカルト的な〈理性〉,F.ベーコン的な〈力としての知〉をよりどころとして,人間は歴史の主人公となり,歴史はコンドルセの《人間精神の進歩》(1795)に見られるように,人間の無限の完成可能性をめざす進歩の運動として把握されるようになる。このように〈進歩の観念〉は,古代および中世の克服という理念に根ざした近世的な観念だが,翻せば,直線的な時間観,終末論的歴史観が優勢なキリスト教の土壌にこそ生じ得るもので,その意味ではヨーロッパ世界に特殊な思想ということができよう。
フランス革命の彼岸に夢見られたこういう〈進歩の観念〉は,以後コントに見られるように,現実法則として認識され,それに基づいて予見が可能となる実証主義的な楽観主義として定着する。しかし19世紀の中葉以降,進展する産業文明が新しい社会的矛盾を生み出すにつれて,進歩への信仰は揺らぎはじめ,左翼陣営からは市民階級のイデオロギーとみなされるようになる。ヘーゲルからマルクスに通じる弁証法的な思考においては,直線的な進歩に代わって,矛盾とその止揚としての〈発展〉の論理が支配的になる。欧米では自由主義経済と科学技術文明に基づく進歩信仰は,かなり後まで保たれてはきたものの,今日ではさまざまの行詰りに直面して再検討を迫られている。学問の世界においても歴史学をはじめとするさまざまの領域で,いわゆる〈進歩史観〉を相対化する試みがなされるようになっている。しかし進歩が,たんに保守派に対する進歩派という特殊日本的な意味に尽きず,人類の退歩に対する普遍的対抗価値を意味するかぎり,それは,矛盾克服の努力を通じて守られていかなければならないであろう。
→啓蒙思想 →歴史 →歴史哲学
執筆者:徳永 恂
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[歴史哲学]
最後に,歴史にたいする関心ということについてみれば,超人間的啓示にもとづく人間の来し方と行く末への見通しが人心をとらえる度合が弱まり,人生の意義の指針として機能することを止めるに応じて,当然,啓蒙時代においては,ヒューム,ボルテール,モンテスキュー,レッシングといったひとびとにおいて,世俗の世界の歴史にたいする関心がみられ,また,意識するしないにかかわらず,その背後に一つの歴史哲学が働いているさまが観察される。一般的にいえば,古代から〈暗黒時代〉とみなされる中世を経て同時代にいたるまで,人間理性の光は大局的に〈進歩〉の道をたどって来たとする考えが,啓蒙時代には大勢を占めていた。チュルゴー,コンドルセらにその典型的な表現がみられる。…
…(2)歴史的時間の問題。とくに,進歩史観的な時間概念は,依然として広く受け入れられているが,生命史における進化の側面も含めて,世界が時間とともに啓(ひら)かれて行くというような〈進歩〉の観点が,どれだけ維持できるのかが問われている。(3)社会的側面にかかわる問題。…
…したがって生物進化というほうが正確である。 しかし,進化の観念は,思想史的には,18世紀に形成された社会進歩観を背景として成立したものであって,したがってその初めから生物だけでなく社会をも対象としていた。正確にいえば,社会進歩観を背景に,一方では社会進化論や発展的歴史観が生じ,一方では生物進化論が生じたのである。…
…そして反動に対する対応策として,前者の暴虐性には政治権力の行使による積極的取締りを,後者に対しては新しい理念と制度の定着を時間をかけてはかるしかないとする。フランス革命後のヨーロッパでは革命と反革命が交錯し,政治的不安定の時期が続くが,そのなかでマルクスとエンゲルスは進歩の概念に対立する概念として反動を定義した。マルクスは歴史を〈革命を媒介とする非連続的な進歩〉としてとらえ,革命に反対する反動こそ進歩への反動であると説く。…
※「進歩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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