日本歴史地名大系 「山王堂村」の解説 山王堂村さんのうどうむら 埼玉県:本庄市山王堂村[現在地名]本庄市山王堂三王堂村とも記す(関東川々御普請所絵図)。利根川南岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、北は同川を隔てて上野国那波(なは)郡八斗島(やつたじま)村(現群馬県伊勢崎市)、東・西・南を沼和田(ぬまわだ)村に囲まれ、山王堂河岸で栄えた村。村内を南北に伊勢崎往還、東西に柴(しば)街道が通る。永禄三年(一五六〇)上野国勢多郡世良田(せらだ)村(現同県尾島町)から五十嵐九十九ほか三名が当地へ移住、田畑の開発と漁業を営んだが、本庄宿へ同時に移住した関根兵庫・戸谷隼人らの勧めもあり、本庄宿西部の開発のため九十九以外の三名は同宿へ移住したという(文政九年「本庄村開発旧記写」東諸井文書)。 山王堂村さんのうどうむら 茨城県:真壁郡明野町山王堂村[現在地名]明野町山王堂観音(かんのん)川右岸の低地にあり、北は海老島(えびがしま)村。弘治二年(一五五六)の小田・結城両軍の合戦で、両軍が当村付近で対峙し、「結城家譜」に「東西対陣之間悪所也、結城七郎晴朝入馬敵陣、次結城人数悉越悪所合戦、氏治過半敗軍之時節、江戸岩付其外加勢人数越悪所合戦、小田人数討捕千余人、残党悉敗軍、氏治不及帰城、自戦場直土浦城北籠合戦、弘治二丙辰四月五日也、山王堂軍是也」とある。江戸時代は天領・旗本領で元禄郷帳の村高は一六三石余、幕末は天領八二石余、旗本土屋氏領四二石余、折井氏領五四石余、山王権現社領七石、地蔵堂除地一五石余(各村旧高簿)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by