山田鬼斎(読み)やまだ・きさい

朝日日本歴史人物事典 「山田鬼斎」の解説

山田鬼斎

没年:明治34.2.20(1901)
生年元治1(1864)
明治期の木彫家。越前坂井(福井県坂井郡)生まれ。本名常吉。仏師の父に彫刻を学び,明治19(1886)年,同郷の岡倉天心を頼って上京。21年,岡倉に同行し奈良で宝物調査を行い,寺社古仏を研究。23年より東京美術学校(東京芸大)雇となり,29年同校彫刻科教授となった。日本の伝統的彫技を生かして西洋風の写実的表現を試み,皇居前の「楠公像」制作に高村光雲らと共に参加したほか,26年シカゴ万博に出品した浮彫「平治物語図額」(東京国立博物館蔵)など,歴史的主題の作品を多く残した。東京美術学校在職中に死去した。

(山梨絵美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田鬼斎」の解説

山田鬼斎 やまだ-きさい

1864-1901 明治時代彫刻家
元治(げんじ)元年5月6日生まれ。仏師の家に生まれ,明治19年岡倉天心をたよって上京。高村光雲の助手をつとめ,29年東京美術学校(現東京芸大)教授となった。明治34年2月20日死去。38歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。本名は常吉。代表作に木彫「大塔宮護良親王像」,浮彫「平治物語図額」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の山田鬼斎の言及

【明治・大正時代美術】より

…ラグーザは15年間同校にあって,その門下からは大熊氏広(1856‐1934),藤田文蔵(1861‐1934),小倉惣次郎(1843‐1913),佐野昭(しよう)らが育った。彼らに加えて,81年から5年間ベネチアで学んだ長沼守敬(もりよし)が洋風彫塑の開拓者といえようが,国粋主義の伝統復興運動のさなかに設立された東京美術学校では,木彫だけが採用され,竹内久一(きゆういち)(1857‐1916),高村光雲,石川光明,山田鬼斎(1864‐1901)が登用された。93年に開かれたシカゴ万国博覧会には竹内の《伎芸天》,高村の《老猿》,石川の《白衣観音》が出品されたが,これらが明治期の木彫を代表する作品であった。…

※「山田鬼斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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