高村光雲(読み)たかむらこううん

精選版 日本国語大辞典 「高村光雲」の意味・読み・例文・類語

たかむら‐こううん【高村光雲】

明治彫刻家。江戸下谷生まれ。旧姓中島。仏師高村東雲に学びその姓を継ぐ。光太郎の父。東京美術学校開設に際し、教授として彫刻科の基礎を築く。仏師の伝統の上に写実を加味し、木彫に新しい作風をひらいた。代表作西郷隆盛像」「老猿」。嘉永五~昭和九年(一八五二‐一九三四

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デジタル大辞泉 「高村光雲」の意味・読み・例文・類語

たかむら‐こううん〔‐クワウウン〕【高村光雲】

[1852~1934]彫刻家。江戸の生まれ。旧姓、中島。幼名、光蔵。仏師高村東雲の門人で、その姉の養子となり、高村姓を継いだ。光太郎の父。伝統的木彫の近代化に尽力。作「老猿」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「高村光雲」の意味・わかりやすい解説

高村光雲 (たかむらこううん)
生没年:1852-1934(嘉永5-昭和9)

彫刻家。江戸下谷に生まれる。幼名中島幸吉。1863年(文久3)仏師高村東雲の門にはいって木彫を学び,東雲の姉の養子となって74年高村姓をつぐ。77年内国勧業博覧会に東雲の代作をして《白衣観音》を出品,最高賞を受賞。87年から翌年にかけての皇居造営に際し装飾の一部を担当した。明治時代に入り仏像の需要が激減し,象牙彫が隆盛するなど木彫衰退の時期に,鳥や獣を題材に写生をとり入れた新しい作風をひらき,明治の木彫の蘇生に大きな業績をのこした。89年東京美術学校の開設とともに彫刻科の指導者となり,1926年同校名誉教授となるまで後進を指導し,また多くの門下を育成した。1891年光雲と号し,帝室技芸員,帝国美術院会員となり,官展系木彫の重鎮であった。代表作に《老猿》《楠公銅像》《西郷隆盛像》などがある。著書に《光雲懐古談》がある。高村光太郎,豊周は子である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高村光雲」の意味・わかりやすい解説

高村光雲
たかむらこううん

[生]嘉永5 (1852).2.18. 江戸,下谷
[没]1934.10.10. 東京
彫刻家。初名は中島光蔵。高村光太郎,工芸家高村豊周(とよちか)の父。1863年仏師高村東雲門弟となり,1874年師の姉の家を継ぎ高村と称した。1877年第1回内国勧業博覧会に師の代作『白衣観音』を出品して 1等竜紋賞を受賞。1887年東京彫工会に加わる。同年皇居造営の装飾彫刻を担当。その後,帝室技芸員になり,東京美術学校で教え始め,文展審査員,帝国美術院会員,古社寺保存委員を歴任。明治期木彫界の元老として伝統的な日本木彫の正統を守り,門下から米原雲海山崎朝雲平櫛田中などが輩出した。晩年は仏像を多く制作。主要作品『老猿』(1893,東京国立博物館),『楠公像』(1896,皇居外苑),『西郷隆盛像』(1898,上野恩賜公園)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高村光雲」の意味・わかりやすい解説

高村光雲
たかむらこううん
(1852―1934)

彫刻家。江戸に生まれる。本名幸吉、旧姓中島。仏師高村東雲(とううん)(1826―1879)の門に入って木彫を学び、1874年(明治7)東雲の姉の養子となり、高村姓を継いだ。1877年内国勧業博覧会に東雲の代作として『白衣観音(びゃくえかんのん)』を出品、最高賞を受けた。明治初年の木彫衰退期に、写生を取り入れた新しい作風を開き、近代木彫の展開に大きな業績を残した。1889年東京美術学校(現東京芸術大学)の開設とともに彫刻科の指導者となり、翌年帝室技芸員、東京美術学校教授に任命され、1891年光雲と号した。東京美術学校に依頼された『楠公像(なんこうぞう)』『西郷隆盛像(たかもりぞう)』の銅像を木彫の原型から完成させ、1893年のシカゴ万国博覧会では『老猿(ろうえん)』が妙技二等賞を受賞した。1907年(明治40)の文展開設後は審査員を歴任し、1919年(大正8)には帝国美術院会員となり、文字どおり官展系木彫の重鎮であった。1926年東京美術学校教授を退いて名誉教授となった。長男の光太郎(こうたろう)は彫刻家・詩人、三男の豊周(とよちか)は工芸家として名高い。著書に『光雲懐古談』がある。

[三木多聞]


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百科事典マイペディア 「高村光雲」の意味・わかりやすい解説

高村光雲【たかむらこううん】

彫刻家。本名は中島光蔵。江戸生れ。仏師高村東雲に師事。木彫の伝統技法に写実的表現を加え,伝統技法の新たな展開をはかった近代日本彫刻の最初の一人。1889年―1926年東京美術学校木彫科教授。弟子に山崎朝雲平櫛田中らがいる。代表作に《老猿》《楠公像》《西郷隆盛像》等。高村光太郎は長男。
→関連項目米原雲海

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朝日日本歴史人物事典 「高村光雲」の解説

高村光雲

没年:昭和9.10.10(1934)
生年:嘉永5.2.18(1852.3.8)
明治大正期の彫刻家。江戸下谷生まれ。本名中島光蔵。文久3(1863)年仏師高村東雲に入門,東雲の姉の養子となり高村姓を継ぐ。明治維新後の牙彫の流行のなかで木彫を通し,明治22(1889)年,日本画と木彫という伝統美術の陣容で開校した東京美術学校(東京芸大)の雇,翌年教授となった。以後,多くの万博や国内の博覧会で高賞を受賞,40年からは官展の審査員を毎回務めた。制作は,明治30年代に頂点を迎えた感があるが,伝統の木彫に西洋の写実を加え,日本近代木彫の祖ともいうべき足跡を残している。長男の高村光太郎をはじめ,山崎朝雲,米原雲海,平櫛田中ら多くの俊秀を門下に輩出した。

(佐藤道信)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高村光雲」の解説

高村光雲 たかむら-こううん

1852-1934 明治-昭和時代前期の彫刻家。
嘉永(かえい)5年2月18日生まれ。高村光太郎,高村豊周(とよちか)の父。高村東雲に木彫をまなび,東雲の姉の養子となる。明治10年第1回内国勧業博で東雲の代作「白衣観音」が最高賞を受賞。東京美術学校(現東京芸大)教授,文展審査員などを歴任。大正8年帝国美術院会員。作品に「楠公像」「西郷隆盛像」「老猿」など。昭和9年10月10日死去。83歳。江戸出身。旧姓は中島。名は光蔵,のち幸吉。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高村光雲」の解説

高村光雲
たかむらこううん

1852.2.18~1934.10.10

明治~昭和前期の彫刻家。旧姓は中島,幼名は光蔵。江戸生れ。仏師高村東雲に師事し,東雲の姉の養子となる。明治維新後衰退していた伝統の木彫をよみがえらせ,内外の博覧会で受賞。1889年(明治22)東京美術学校雇・帝室技芸員,1919年(大正8)帝国美術院会員となり,彫刻界の重鎮,近代木彫の祖として活躍した。代表作「老猿」(重文)「楠公像」「西郷隆盛像」,著書「光雲懐古談」。光太郎は長男。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高村光雲」の解説

高村光雲
たかむらこううん

1852〜1934
明治〜昭和初期の彫刻家
東京の生まれ。明治初期衰退していた木彫に写実的技法をとり入れて再興をはかった。のち東京美術学校教授に迎えられ,伝統的な木彫の技法を指導した。代表作に,上野公園(東京都)の『西郷隆盛像』や『老猿』など。

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