精選版 日本国語大辞典 「高村光雲」の意味・読み・例文・類語
たかむら‐こううん【高村光雲】
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彫刻家。江戸下谷に生まれる。幼名中島幸吉。1863年(文久3)仏師高村東雲の門にはいって木彫を学び,東雲の姉の養子となって74年高村姓をつぐ。77年内国勧業博覧会に東雲の代作をして《白衣観音》を出品,最高賞を受賞。87年から翌年にかけての皇居造営に際し装飾の一部を担当した。明治時代に入り仏像の需要が激減し,象牙彫が隆盛するなど木彫衰退の時期に,鳥や獣を題材に写生をとり入れた新しい作風をひらき,明治の木彫の蘇生に大きな業績をのこした。89年東京美術学校の開設とともに彫刻科の指導者となり,1926年同校名誉教授となるまで後進を指導し,また多くの門下を育成した。1891年光雲と号し,帝室技芸員,帝国美術院会員となり,官展系木彫の重鎮であった。代表作に《老猿》《楠公銅像》《西郷隆盛像》などがある。著書に《光雲懐古談》がある。高村光太郎,豊周は子である。
執筆者:三木 多聞
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彫刻家。江戸に生まれる。本名幸吉、旧姓中島。仏師高村東雲(とううん)(1826―1879)の門に入って木彫を学び、1874年(明治7)東雲の姉の養子となり、高村姓を継いだ。1877年内国勧業博覧会に東雲の代作として『白衣観音(びゃくえかんのん)』を出品、最高賞を受けた。明治初年の木彫衰退期に、写生を取り入れた新しい作風を開き、近代木彫の展開に大きな業績を残した。1889年東京美術学校(現東京芸術大学)の開設とともに彫刻科の指導者となり、翌年帝室技芸員、東京美術学校教授に任命され、1891年光雲と号した。東京美術学校に依頼された『楠公像(なんこうぞう)』『西郷隆盛像(たかもりぞう)』の銅像を木彫の原型から完成させ、1893年のシカゴ万国博覧会では『老猿(ろうえん)』が妙技二等賞を受賞した。1907年(明治40)の文展開設後は審査員を歴任し、1919年(大正8)には帝国美術院会員となり、文字どおり官展系木彫の重鎮であった。1926年東京美術学校教授を退いて名誉教授となった。長男の光太郎(こうたろう)は彫刻家・詩人、三男の豊周(とよちか)は工芸家として名高い。著書に『光雲懐古談』がある。
[三木多聞]
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(佐藤道信)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1852.2.18~1934.10.10
明治~昭和前期の彫刻家。旧姓は中島,幼名は光蔵。江戸生れ。仏師高村東雲に師事し,東雲の姉の養子となる。明治維新後衰退していた伝統の木彫をよみがえらせ,内外の博覧会で受賞。1889年(明治22)東京美術学校雇・帝室技芸員,1919年(大正8)帝国美術院会員となり,彫刻界の重鎮,近代木彫の祖として活躍した。代表作「老猿」(重文)「楠公像」「西郷隆盛像」,著書「光雲懐古談」。光太郎は長男。
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