エンゲルス(読み)えんげるす(英語表記)Friedrich Engels

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エンゲルス」の意味・わかりやすい解説

エンゲルス
えんげるす
Friedrich Engels
(1820―1895)

マルクスの親友で科学的社会主義マルクス主義)の共同創始者。11月28日、ドイツのライン州北部の工業都市バルメンで繊維工場を経営する家族企業の共同出資者の家庭に、8人兄弟の長子として生まれる。1837年、エルバーフェルトのギムナジウム(高等学校)を卒業試験を受けずに中退し、独立した父の仕事の手伝いを1年ほどしたのちに、ブレーメンのロイポルド商会で2年半業務見習い。仕事の暇に評論や詩を書き、F・オスワルトのペンネームで新聞などに発表する。1841年、兵役義務を果たすためにベルリン近衛(このえ)砲兵旅団に1年志願兵として入隊するが、軍務の合間をみてベルリン大学で哲学などを聴講し、ヘーゲル左派の仲間に加わる。除隊後、父が共同経営者となっているマンチェスターイギリス)のエルメン・アンド・エンゲルス商会の紡績工場で働くが、暇をみつけては労働者の実情をみて回り、労働運動チャーティスト運動や社会主義運動に接触し、共産主義者の立場を固めながら、いくつかの論文を書く。そのなかで、アイルランド出身の労働者メアリー・バーンズMary Burns(1823ころ―1863)と知り合い、1843年共同生活を始める。1844年にマルクスとルーゲArnold Ruge(1802―1880)が発刊した『独仏年誌』に発表した『国民経済学批判大綱』はマルクスの経済学研究に強い影響を与えた。

 1844年8月、イギリスよりドイツに帰る途中パリに立ち寄ってマルクスに会い、意見一致をみいだし、これより2人の終生にわたる友情と協働が始まる。その最初の仕事がヘーゲル左派を批判した『聖家族』(1845)の分担執筆である。その後、バルメンに帰って父の商会で働きながら、マンチェスターでの見聞と研究に基づいて『イギリスにおける労働者階級の状態』を書き上げる。1845年4月、家を飛び出して、マルクスが移っていたブリュッセルに住み、そこで共同で『ドイツ・イデオロギー』を執筆し、人間社会についての新たな歴史的なとらえ方である唯物史観を提示する。同時に、共産主義者の連帯と結集を目ざして共産主義通信委員会を創設、1847年には義人同盟に加入し、共産主義者同盟に発展させる。そして、同盟の綱領作成を目ざして『共産主義の原理』を起草し、それを下案として『共産党宣言』がマルクスによって執筆される。1848年、革命(ドイツ三月革命)が勃発(ぼっぱつ)するや、ドイツに帰り、マルクスといっしょに『新ライン新聞』を発刊し、さらには義勇軍の副官として戦闘に直接参加もしたが、革命の敗北により、1849年、マルクスのあとを追ってロンドンに亡命する。

 ロンドンでは、マルクスの『新ライン新聞・政治経済評論』の発刊に協力し、『ドイツ農民戦争』などの論文を寄稿したが、生活の窮迫のなかで、1850年よりふたたびマンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルス商会に勤務、20年にわたるビジネスマン生活をすることになる。1850~1860年社員、1860~1864年業務代理人、1864~1869年事務所支配人として働き、マルクス一家への経済的援助を続ける。その間、マンチェスターの町なかの住まいで取引先とつきあいながら、郊外の小さな家では政治上や学問上の友人たちと交流するという、二重生活を送っている。郊外の家でいっしょに暮らしていたメアリー・バーンズが1863年に死亡、1864年にメアリーの妹リディアLydia Burns(1827―1878)を妻とする。

 1869年7月、商会勤務に終止符を打ち(ただし1875年まで共同出資者)、1870年秋にはロンドンに移り、マルクス家の近くに住居を構えて、著述と政治活動に専念する。『自然弁証法』(未完成)、『オイゲン・デューリング氏の科学の変革(反デューリング論)』(1876)、『空想より科学へ』(1880)、『家族、私有財産および国家の起原』(1884)、『ルートウィヒ・フォイエルバハとドイツ古典哲学の終結(フォイエルバハ論)』(1886)などを執筆した。エンゲルスの学識の広さは、経済学、哲学、文学、神学、言語学、さらには自然史、化学、植物学、物理学に及び、外国語は「20か国語でどもる」といわれたほどであり、さらに兵学に関しては、クリミア戦争やプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)などについての卓越した戦況判断がセンセーションを巻き起こし、「将軍(ゼネラル)」とよばれる。だが、1883年マルクスの死亡後は、とくにマルクスの遺稿に基づく『資本論』の完成に心血を注ぎ、第2巻を1885年に、第3巻を1894年に公刊した。さらに、1889年に創設された第二インターナショナルへの援助や、1890年のロンドンでの第1回メーデーへの参加など、国際労働運動や社会主義運動への指導や参加を続けている。1895年、マルクスと自分の労作の全集の準備を始めたが、8月5日食道癌(がん)で死亡。74歳。遺言により火葬に付され、遺骨はイングランド南海岸のイーストボーンの沖合いに沈められた。

[重田澄男 2015年2月17日]

『『マルクス=エンゲルス全集』全54冊(1959〜1991・大月書店)』『土屋保男著『フリードリヒ・エンゲルス』(新日本出版社・新日本新書)』『ベーベル、メーリング他著、栗原佑訳『エンゲルスの追憶』(大月書店・国民文庫)』『大内兵衛著『マルクス・エンゲルス小伝』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エンゲルス」の意味・わかりやすい解説

エンゲルス
Engels, Friedrich

[生]1820.11.28. プロシア,バルメン
[没]1895.8.5. イギリス,ロンドン
ドイツの経済学者,哲学者,社会主義者。カルル・マルクスとともにマルクス主義を創設する。当初ヘーゲルの影響を強く受けたが,父親の関係した会社を手伝うためイギリスに渡り,産業資本主義下のイギリスの労働者階級の状態をつぶさに見聞して社会主義者へ脱皮した。経済学を研究して『国民経済学批判大綱』 Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie (1844) を執筆。その後ドイツに帰り,マルクスとともに『共産党宣言』 (1848) などを著し,共産主義者同盟を指導するなど,近代労働運動の理論的支柱であるマルクス主義を樹立した。その後 1848~49年のドイツ革命に敗北後再びイギリスに渡り,マンチェスターで商業に従事するかたわら,マルクスの『資本論』完成に物質的にもまた精神的,理論的にも多大の援助を行なった。その後ロンドンに移り,マルクスとともに第1インターナショナルの指導などにあたったが,マルクスの死後はその遺稿を整理し,『資本論』第2巻,第3巻を世に送った。また第2インターナショナルなどの国際労働運動の理論的,精神的支柱として,社会主義運動,労働運動に多大の影響を与えた。著書は多数に上るが『聖家族』 (マルクスとの共著) Die heilige Familie oder Kritik der kritischen Kritik (1845) ,『イギリスにおける労働者階級の状態』 Die Lage der arbeitenden Klassen in England (1845) ,『反デューリング論』 Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft (1878) ,『空想から科学への社会主義の発展』 Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft (1882) (→空想より科学へ ) など。

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