山道村(読み)さんどうむら

日本歴史地名大系 「山道村」の解説

山道村
さんどうむら

[現在地名]余市よいち郡仁木町旭台あさひだい然別しかりべつ然別元山国有地内しかりべつもとやまこくゆうちない砥の川とのかわ余市豊丘町とよおかちようなど

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同三五年(一九〇二)まで存続した村。現仁木町域の北部、余市川左岸に位置する。一八五六年(安政三年)余市の請負人竹屋長左衛門らにより「ヨイチ山道」(「ヨイチ越」とも)が開削され(板本「西蝦夷日誌」)、余市川下流筋を下山道、稲穂いなほ峠寄りを上山道と称したが、この完成により下ヨイチ場所運上家から余市川を渡らずに積丹しやこたん半島を横断できた。ルベシベとも称される峠には旅宿所(笹小屋)が置かれたが(板本「西蝦夷日誌」など)、当村名はこの山越え道に由来する。


山道村
やまみちむら

[現在地名]鶴田町山道

東は五所川原堰を境に横萢よこやち村、西は鶴田つるだ村、南は中野なかの村、北は亀田かめだ村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に六九六・六石とあり、寛文四年(一六六四)以後新田とされる。貞享四年の検地帳には田方八四町五反九畝一六歩、畑方四町八反一畝二八歩、田畑屋敷合せて八九町四反一畝一四歩、村高八三〇・四四石、百姓三八人とあり、郷蔵屋敷が記される。「平山日記」によれば元和―寛永年間(一六一五―四四)から開発された三千石遣に属したが、元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は中とある。文政二年(一八一九)の卯年書上之表(六郷村誌)に田方六五〇・四〇二石、畑方五七・四五石、家数三七、うち百姓二六、高無一一、人数二〇二、庄屋九左衛門、五人組長太郎・弥五左衛門とある。


山道村
やまみちむら

[現在地名]唐津市枝去木えざるき

東松浦半島上場うわば台地の中央の丘陵地打上うちあげ地区(現東松浦郡鎮西町)大良だいら地区(現唐津市)を結ぶ大良道が通る。上有浦かみありうら川上流山道川があるが、水量に乏しい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android