山鹿庄(読み)やまがのしよう

日本歴史地名大系 「山鹿庄」の解説

山鹿庄
やまがのしよう

菊池川中流域の現山鹿市を中心に、鹿本かもと鹿央かおう町・鹿本町の一部を含む旧山鹿郡の西部、それに平安期には玉名たまな郡の東部(現三加和町・菊水町・玉名市東部)にまで及んでいたと推定される王家領の郡名荘園。鎌倉期には北庄・南庄の区分があり、北庄は山鹿北郷、南庄は同南郷の一部で、おそらく両郷の境は菊池川であったと推定される。

〔成立と伝領〕

天仁二年(一一〇九)一二月二二日の白河院庁牒(醍醐雑事記)や大治五年(一一三〇)七月日の無量光院請文(同書)、年未詳の醍醐寺無量光院事書(同書)などによると、本主壱岐守能高の次子出羽権守能輔が六条院(白河院娘の郁芳門院子)に仕える六条院宣旨殿(尼蓮妙)に寄せ、蓮妙が白河院に寄せて寛治六年(一〇九二)二月二六日に立券荘号の手続きがとられ、院使・大宰府使・国使が現地に臨み境四至に示を打ち院領荘園として成立した。白河院は嘉保三年(一〇九六)に没した六条院のために京都下醍醐しもだいご無量光むりようこう院を建て、永長二年(一〇九七)一二月二六日に当庄を寄進、重ねて院使・府使・国司らの検注を経て無量光院領山鹿庄が成立した。本主能輔は「七代可為下司職之由」の白河院庁下文を得、六条院宣旨殿は預所ないし領家となり、無量光院と白河院が領家ないし本家職をもった。天承元年(一一三一)には検注が行われ、坪付が作成されている(文治二年四月「醍醐寺文書目録」醍醐雑事記)。下司職を得た能輔は「本主」といわれるものの在地の開発領主ではなく、白河院か六条院に仕える下級貴族と思われ、なんらかの所縁で在地領主と結びつき当庄の荘園化に力を貸した者と推定される。能輔のあと在仲―為宗と相伝され、大治五年当時は在仲がその任にあった(前掲無量光院請文)

蓮妙は天仁二年その権利を孫娘仲子に譲り(前掲白河院庁牒)、仲子の夫源能賢は従四位下右兵衛佐となり山鹿庄の荘務をつかさどった。仲子は娘の源俊雅妻に譲り、さらにその子の侍従俊定に譲られ、俊定が知行の間に内大臣源(久我)雅通が伝領し(無量光院事書では押して知行するとあり)、次いでその息女三条局(後白河院女房)、さらに源(堀川)大納言通具、その弟中院通方が伝領したという(「庄園濫觴事」寺家雑筆至要抄)


山鹿庄
やまがのしよう

現在の北九州市若松わかまつ区を中心に、同市八幡西やはたにし区・八幡東区・戸畑とばた区、遠賀郡芦屋あしや町・水巻みずまき町までがその領域であったと推測される庄園。観世音寺(現太宰府市)領・九条家領。庄名は「和名抄」にみえ遠賀おか郡六郷の一つ山鹿郷に由来。大宝三年(七〇三)一〇月二〇日、朝廷より「遠賀郡山鹿林東山壱処 四至東南北海限、西従布刀浦至韓泊道限」が観世音寺に施入され、これが観世音寺領山鹿庄の淵源となった(延喜五年観世音寺資財帳)。このとき設定された山の範囲は現在の若松区東半部に相当する地域とみられ、山林は製塩の際に必要となる燃料を調達するための「塩焼山」として利用された。その後の立庄の時期については不明だが、仁平三年(一一五三)四月二九日の東大寺諸庄園文書目録(慈光明院所蔵文書/平安遺文六)に「一巻五枚 弘仁九年山鹿庄公験」とみえることから、あるいは弘仁九年(八一八)のことであったかもしれない。当庄は初め観世音寺領として成立をみたが、その後同寺が律令制の崩壊に伴う寺運の衰退により保安元年(一一二〇)までに奈良東大寺の末寺になると、以降当庄の年貢もその多くが東大寺に送られるようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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