日本歴史地名大系 「山鹿市」の解説 山鹿市やまがし 面積:八七・四四平方キロ県の北部に位置し、東は鹿本(かもと)郡菊鹿(きくか)町・鹿本町、西は玉名(たまな)郡三加和(みかわ)町・菊水(きくすい)町、南は鹿本郡鹿央(かおう)町、北は同郡鹿北(かほく)町と接する。北境から東境に標高四〇〇―六〇〇メートルの峰が連なり、南部は蛇行しながら西流する菊池川が形成した沖積平野の菊鹿(きくろく)盆地が広がる。同川支流の岩野(いわの)川が中央部を南流、吉田(よしだ)川が南部を西流し、岩村(いわむら)川が北西部を南西流する。また鹿央町から北流する千田(ちだ)川・岩原(いわばる)川を合流する。国道三号が中央部を縦断し、山鹿で鹿本町から抜ける国道三二五号を合流する。市域は明治二九年(一八九六)まで山鹿郡に属し(藤井は明治三年まで玉名郡)、同年に山鹿・山本(やまもと)両郡が合併し鹿本郡が成立すると市制施行まで同郡に属した。山鹿郡は「筑後国風土記」逸文や平城宮出土木簡などにみえる(→山鹿郡)。〔原始・古代〕古閑の長沖(こがのながおき)貝塚からは鹿北町柿原(かきばる)遺跡出土の石槍と同時期の後期旧石器末頃の石核が出土している。縄文期の遺跡としては、早期・後期の東鍋田(ひがしなべた)遺跡や菊池川右岸の志々岐(しじき)台地上にある後期の牛草(うしぐさ)遺跡、淡水産の貝塚として知られる早期の長沖貝塚などがあり、菊鹿盆地周囲の台地上に広く分布する。弥生期になると菊鹿盆地の沃野の経済的基盤を背景に、特異な文化が開花する。北九州を中心とする銅剣・銅鉾文化圏の南限が菊池川流域と推定され、県下で出土地の明白な銅剣・銅鉾・銅戈二四本のうち一一本までがこの地域から出土している。昭和四八年(一九七三)方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡から巴形銅器・銅鏃・銅鏡などが出土し、後期の小部族国家の存在が推定された。中期から後期にかけての甕棺墓群も保多田(ほだた)や南島の笠仏(みなみじまのかさぼとけ)、蒲生の下原(かもうのしもばる)などの遺跡が発見されている。古墳も多数が確認され、装飾文様や墳頂に石人を有する古墳が多いことで特異な地域とされる。城(じよう)のチブサン古墳・オブサン古墳や、熊入(くまいり)町の弁慶(べんけい)ヶ穴(あな)古墳・石の臼塚(いしのうすづか)古墳などは後期の装飾古墳として知られる。 山鹿市やまがし 2005年1月15日:山鹿市と鹿本郡鹿北町・菊鹿町・鹿本町・鹿央町が合併⇒【鹿北町】熊本県:鹿本郡⇒【菊鹿町】熊本県:鹿本郡⇒【鹿本町】熊本県:鹿本郡⇒【鹿央町】熊本県:鹿本郡⇒【山鹿市】熊本県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山鹿市」の意味・わかりやすい解説 山鹿〔市〕やまが 熊本県北部にある市。菊池川中流域の山鹿盆地から筑肥山地南斜面に位置し,北部で福岡県に接する。 1954年山鹿町と三岳村,平小城村,三玉村,八幡村,川辺村,米田村,大道村の7村が合体して市制。 2005年鹿央町,鹿北町,鹿本町,菊鹿町と合体。中心市街地の山鹿は古くから湯の町として知られ,江戸時代には宿場町,温泉町として発展。温泉旅館,商店が立ち並び,温泉街を形成している (→山鹿温泉 ) 。製糸,製材,清酒・醤油醸造などの工場がある。農村地域では米作,クリ,チャ (茶) ,ミカン,メロン,スイカ,タバコの栽培,肉牛の飼育が行なわれる。山地では杉材を産する。来民では渋うちわを特産。鍋田横穴,チブサン古墳,オブサン古墳,弁慶ヶ穴古墳,岩原古墳などの装飾古墳や,青銅器が多数出土して注目された方保田東原遺跡があり,これらは国の史跡に指定されている。毎年8月に行なわれる山鹿大宮神社の灯籠祭りは特に有名。菊池川のチスジノリ発生地は国の天然記念物。面積 299.69km2。人口 4万9025(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by