岩剣城跡
いわつるぎじようあと
思川の下流右岸に注ぐ小川に挟まれ、南西から北東に延びる標高二二一メートルを最高地点とするシラス尾根の先端剣ノ岡(剣ノ平・剣ノ峯ともいう)を主体とした山城。享禄二年(一五二九)
答院重武が帖佐本城(平山城)と新城・山田城を攻略(島津国史)、その後は重武と子の良重が帖佐を領したが(天保元年「帖佐来歴」姶良町歴史民俗資料館蔵)、この頃に築城されたと推定される。天文二三年(一五五四)七月島津貴久による大隅の領国化政策が日程に上ると蒲生範清・菱刈隆秋・北原兼守・入来院重朝・
答院良重らが連携し、各地に城郭を構えて貴久に対抗した(島津国史)。この時の当城の城番は蒲生氏方の西俣盛家(新納忠元勲功記)、あるいは入来院氏(樺山玄佐自記・島津国史)、または渋谷氏だったという(三国名勝図会)。
天文二三年九月一二日、島津貴久は父忠良、弟忠将、子の義久・義弘・歳久らに鹿児島・谷山(現鹿児島市)、伊集院、伊作(現吹上町)、田布施(現金峰町)、加世田、川辺等の衆を率いさせ鹿児島内城(現鹿児島市)を出陣し、当城の周辺に陣城を築いた。一三日鹿児島衆足軽らが脇元の人家を焼払い、同じく足軽らが当城の坂の途中まで上がり、義弘らが坂口まで押寄せた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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