朝日日本歴史人物事典 「崎山次郎右衛門」の解説
崎山次郎右衛門
生年:慶長16(1611)
江戸前期,下総銚子漁業・高神村字外川湊築港の開発漁師。名は安久,幼名は助五郎,屋号は大納屋。紀州(和歌山)藩の地士頼安の子として有田郡広に生まれる。農漁業に従事していたが,木綿・藍・柑橘・砂糖作の適効肥料として重要視される房総の鰯に目をつけた上方・紀州海民の積極的な関東旅漁に呼応して明暦2(1656)年以後は下総飯沼村,今宮村,外川浦(いずれも千葉県)へと転住。延宝5(1677)年広に帰国するまでのこの間,任せ網・八手網の導入,干鰯場の開設,西方寺(のちの宝満寺)の建立に尽力した。特筆すべきは万治1(1658)年,寛文1(1661)年の2期にわたった外川湊築港と市街地の建設で,湊の築立技術の優秀さは大正11(1922)年の全面改築まで活用されたことでも知れる。4代目次郎右衛門が安永3(1774)年に紀州へ引き揚げ,この外川での漁業は終焉した。<参考文献>『銚子木国会史』,『広川町史』上下
(田島佳也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報