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崔瑩 さいえいCh'oe Yǒng

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

崔瑩
さいえい
Ch'oe Yǒng

[生]忠粛王3(1316)
[没]辛ご14(1388)
朝鮮,高麗末期の武人,政治家。諡は武愍。開国の功臣崔俊 邕 (しゅんよう) の後裔といい,名臣崔惟清 (ゆいせい) 5世の孫。司憲糾正崔元直の子。忠定王2 (1350) 年以降倭寇を撃退し,恭愍王1 (52) 年趙日新の乱,同3年元の内乱,同8年紅巾軍侵寇,同 12年金 鏞 (きんよう) の乱,翌年崔濡 (さいじゅ) の乱,辛ご2 (76) 年倭寇との鴻山 (こうざん) の戦いなどことごとく平定し,百戦の勇将と尊敬された。同年侍中 (首相) となって以後国政に尽し,鉄嶺以北の帰属問題を契機に征明論 (向元派) を唱え,同 14年征明軍を派遣したが途中威化島で李成桂の回軍が行われ,向明派の勝利となり,崔瑩は処刑された。

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世界大百科事典 第2版の解説

さいえい【崔瑩 Ch‘oe Yŏng】

1316‐88
朝鮮,高麗末の武人政治家。昌原郡の人。初め倭寇を討って名をあげ,以後も倭寇,紅巾の乱ほかの外寇,内乱等の鎮定に活躍し,またしだいに中央政界でも重きをなした。1388年辛禑と結んで李仁任一派を排除して政権を握り,おりからの明の鉄嶺以北領有の通告を機に,反明・親北元の立場を闡明にし,明の遼東衛征討の軍を興した。しかし,李成桂の威化島からの回軍によって敗れ,殺された。諡(おくりな)は武愍。【北村 秀人】

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