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恭愍王 きょうびんおうKongmin-wang

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

恭愍王
きょうびんおう
Kongmin-wang

[生]忠恵王17(1330)
[没]恭愍王23(1374)
朝鮮,高麗の第 31代の王 (在位 1352~74) 。名は王せん。諡は敬孝大王。忠粛王の子。夫人は元の魯国公主。王の時代は高麗の末期にあたり,長期間高麗を支配していたモンゴル勢力 (元帝国) も衰えていたが,王自身幼少時代から青年期にかけて元朝の支配下にあったため,元に対する反感が強く,即位すると元の年号の使用をやめ官制なども旧に復し,さらに軍隊を派遣して双城 摠管府を高麗支配に移すなど徹底した反元政策をとった。中国では元朝治下に紅巾の反乱 (→紅巾軍 ) が起り,一部は朝鮮に侵入して開京を陥れたが,王は李成桂らに命じてこれを退けた。晩年は僧辛とん (法名遍照) を重用して政治の混乱を招き,在位 24年目に宦官崔万生らに殺害された。画にすぐれ,高麗朝の代表的画家に数えられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

恭愍王 きょうびんおう

1330-1374 高麗(こうらい)(朝鮮)の国王。
忠粛王17年生まれ。忠粛王の次男。高麗王朝第31代。在位1351-74。貞治(じょうじ)5=正平(しょうへい)21年(1366)日本に使者をおくって倭寇(わこう)の禁圧を要求。翌年将軍足利義詮(よしあきら)は使いを派遣,とだえていた国交を再開。王は反元(げん)政策をとり,内政改革をすすめたが,恭愍王23年9月22日暗殺された。45歳。

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世界大百科事典 第2版の解説

きょうびんおう【恭愍王 Kong‐min‐wang】

1330‐74
朝鮮,高麗第31代の王。在位1352‐74年。姓名は王顓(おうせん)。初名は祺。蒙古名はバヤンティムール(伯顔帖木児)。忠粛王の子。彼の即位前後,国内では,元の順帝の皇后奇氏一族ほかの親元勢力が権勢を振るい,中国では元朝への反乱が頻発していた。即位前,長く元廷に入侍し,元の衰勢を見聞していた王は,1356年親元勢力の誅除,東北領域の元からの奪還,元の年号使用の停止ほかの反元政策を展開し,元との関係を実質的に絶った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

恭愍王
きょうびんおう
(1330―1374)

朝鮮、高麗(こうらい)朝第31代国王(在位1352~74)。姓名は王(おうせん)、モンゴル名は伯顔帖木兒(バヤンティームール)。忠粛王の第2子。中国、元(げん)の宮廷で成長し、元の王女との婚姻関係を背景にして王位についた。しかし即位後は、元と結んで権勢を振るう奇轍(きてつ)一族を追放し、反元運動を展開した。元に倣った服制、官制を高麗伝統のものに復し、元が占領していた咸鏡(かんきょう)道、平安道一帯を回復した。晩年は乱行が多く、宦官(かんがん)に殺害された。[吉田光男]

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367日誕生日大事典の解説

恭愍王 (きょうびんおう)

生年月日:1330年2月5日
朝鮮,高麗朝の第31代王(在位1352〜74)
1374年没

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世界大百科事典内の恭愍王の言及

【高麗】より

…元の支配下の中国では14世紀中期から反元運動が起こり,元の威信はゆらぎ出した。それを見て恭愍(きようびん)王は新興官僚の支持の下に,1356年,反元運動を起こし,親元派の追放,元の年号の使用停止,双城総管府の奪回,農荘の没収などを断行した。しかし親元派はじめ保守派の反対により中途で挫折した。…

※「恭愍王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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