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中国・朝鮮の文献にみえる名辞で、本来の意味は、日本人の寇賊(こうぞく)行為ないしその行為をする人物および集団をさすものであるが、実体は時代や地域によって相違し、かならずしも一定してはいない。倭寇の文字が古く用いられた例は高句麗(こうくり)広開土王(こうかいどおう)の碑文にあり、新しい例では日中戦争時の日本軍が中国で20世紀的倭寇とよばれている。なお豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵は万暦(ばんれき)倭寇であった。倭寇とよばれるもののなかで、もっともよく知られているのは、14世紀から15世紀初頭まで朝鮮半島と中国大陸の沿岸で行動したものと、16世紀の後半に中国大陸南岸や南洋方面で行動したものとである。
[田中健夫]
『高麗史(こうらいし)』に倭人が朝鮮半島に寇した記事が初めてみえるのは1223年(貞応2)で、日本側の記録でも1232年(貞永1)に鏡社(かがみしゃ)(佐賀県唐津市)の住人が高麗から珍宝を奪って帰ったと記している。しかし、大規模な倭寇集団の行動が起こるのは1350年(正平5・観応1)以後で、この年以後毎年のように倭寇は朝鮮半島の沿岸を荒らしている。倭寇が略奪の対象としたものの第一は米穀である。租粟(そぞく)を収める漕倉(そうそう)とそれを運搬する漕船(そうせん)がまず攻撃の目標になった。ついで沿岸の住民が第二の略奪対象になった。捕虜にされた高麗人は日本に連れてこられただけでなく、遠く琉球(りゅうきゅう)にまで転売されることもあった。高麗では高官を日本に派遣し、倭寇を禁止するように求めるとともに、日本在住の高麗人捕虜を買って帰国させた。日本から捕虜を高麗に送還すれば相当の対価が支払われた。倭寇の構成員は、日本の名主(みょうしゅ)・荘官(しょうかん)・地頭(じとう)などを中心とする海賊衆、海上の浮浪者群、武装した商人などのほかに、高麗で禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)といわれた賤民(せんみん)群が合流することがあった。禾尺は牛馬のと畜や皮革の加工、柳器の製作などに従った集団、才人は仮面芝居や軽業を職とした集団で、伝統的に蔑視(べっし)されていた。
1392年、王氏の高麗王朝にかわって李(り)氏の朝鮮王朝が成立すると、高麗時代からの外交折衝による倭寇鎮圧策を継承するとともに国防の体制を整備し、新たに倭寇を懐柔する政策を採用した。この政策により、倭寇は朝鮮に投降して官職や衣料、住居などを受けるもの、使人(しじん)や商人として貿易に従うもの、従来どおり海賊行為を続けるものなどに分解変質し、やがて消滅していった。朝鮮側では1419年(応永26)、倭寇の巣窟(そうくつ)ないし通過地とみなした対馬(つしま)の掃討を目的として大軍を対馬に送り込んだ。これが応永(おうえい)の外寇(がいこう)で、朝鮮では己亥東征(きがいとうせい)とよんだ。こののち朝鮮では対馬の宗(そう)氏を優遇して、日本からの渡航者を管理する役目を与え、倭寇再発の防止に備えた。
朝鮮半島を襲った倭寇は転進して中国大陸に向かい、元(げん)や明(みん)を攻撃した。明の太祖(たいそ)(洪武帝)は海岸の警備を厳重にするとともに、日本の征西将軍懐良親王と折衝して倭寇を防止しようとしたが、成果はあがらなかった。明の成祖(せいそ)(永楽帝)のときになって足利義満(あしかがよしみつ)との間に通交の体制ができ、以後中国大陸の倭寇も鎮静した。
[田中健夫]
16世紀になり、中国大陸の南岸から南洋方面にかけて、また倭寇とよばれる集団の活動が始まった。もっとも勢力が盛んだったのは1522年(明の嘉靖1年)以後約40年間にわたって行動したもので嘉靖(かせい)大倭寇といわれる。この時期の倭寇の特色は、構成員中に占める日本人の率がきわめて少なく、大部分が中国人であったこと、東アジアの海域に初めて姿を現したポルトガル人も倭寇の同類として扱われたことである。倭寇に捕らえられた中国人が、髪を剃(そ)られてにせの倭寇に仕立てられ、一群に加えられることも珍しくなかった。明では太祖のとき以来、海禁(かいきん)という一種の鎖国政策をとって中国人の海上活動を禁じていたが、経済活動が発達した16世紀ではこの政策の維持が困難となり、海上で密貿易を行うものが激増した。郷紳(きょうしん)、官豪(かんごう)などとよばれた地方の富豪層も密貿易者群と結んでその活動を助長した。ポルトガル人も明から正式の貿易許可が得られなかったので密貿易者となった。そこに日本商船が、当時国内で生産量を急増させていた銀を所持して南下し、合流した。これらの人々は中国の官憲から一括して倭寇とみられたのである。彼らは浙江(せっこう)省の隻嶼(そうしょ)、ついで瀝港(れきこう)を根拠地として盛んな密貿易を行った。この地が中国官憲の攻撃により壊滅すると、彼らは根拠地を日本に移し、中国大陸沿岸に出動して寇掠(こうりゃく)活動を行った。倭寇の集団は分裂・合体を繰り返し、その行動は複雑な様相をみせたが、もっとも有名だったのは王直(おうちょく)である。王直は日本の平戸(ひらど)や五島(ごとう)地方を根拠とし、大船団を組織してしばしば中国の沿岸を侵した。彼は、1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外国船のなかの乗員の1人であり、五峰(ごほう)先生とよばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋(あっせん)をしたりしたらしい。明では王直一派の掃討に手をやき、帰国すれば罪を許して貿易を許可するとして誘引し、彼が帰国すると投獄、斬首(ざんしゅ)した。
倭寇に参加した日本人は、鄭若曽(ていじゃくそう)の『籌海図編(ちゅうかいずへん)』によると、薩摩(さつま)、肥後、長門(ながと)の人がもっとも多く、大隅(おおすみ)、筑前(ちくぜん)、日向(ひゅうが)、摂津、播磨(はりま)、紀伊、種子島、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、和泉(いずみ)の人々であったという。船は3~5月ころ五島または薩摩を発し、大小琉球(沖縄、台湾)を経て、江南、広東(カントン)、福建に至ったという。倭寇の残虐行為として類型化して伝えられているのは「縛嬰沃湯(ばくえいようとう)」と「孕婦刳腹(ようふこふく)」である。前者は幼児を柱にくくりつけて熱湯をかけ、その泣き声を聞いて喜ぶというもの。後者は妊婦の腹を裂いて、男女のどちらをはらんでいたかを当てる賭博(とばく)であるという。一方、倭寇が善良な住民に温情を示したという話もなくはなかった。明では胡宗憲(こそうけん)、戚継光(せきけいこう)、兪大猷(ゆだいゆう)らが海防にあたって成果をあげ、1567年には200年にわたった海禁令が緩められ、南海地方との貿易が許されて、倭寇活動は鎮静に向かった。この時代、明では数多くの日本研究書が発表され、中国におけるこれまでの日本認識は一変した。
[田中健夫]
『田中健夫著『倭寇――海の歴史』(教育社歴史新書)』
朝鮮半島,中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域で行動した,日本人をふくむ海賊的集団に対して朝鮮人や中国人がつけた称呼。本来は〈日本の侵寇〉あるいは〈日本人の賊〉という意味だが,時代と地域によって,その意味する内容は多様で,倭寇を連続した歴史概念としてとらえることは不可能である。文字の初見は404年の高句麗広開土王碑文にあるものだが,豊臣秀吉の朝鮮出兵も20世紀の日中戦争もひとしく倭寇の文字であらわされた。時期,地域,構成員などを規準につけられた倭寇の称呼には,〈高麗時代の倭寇〉〈朝鮮初期の倭寇〉〈麗末鮮初の倭寇〉〈元代の倭寇〉〈明代の倭寇〉〈嘉靖の大倭寇〉〈万暦の倭寇〉〈二十世紀的倭寇〉〈朝鮮半島の倭寇〉〈山東の倭寇〉〈中国大陸沿岸の倭寇〉〈浙江の倭寇〉〈杭州湾の倭寇〉〈双嶼(そうしよ)の倭寇〉〈瀝港(れつこう)の倭寇〉〈台湾の倭寇〉〈ルソン島の倭寇〉〈南洋の倭寇〉〈シナ人の倭寇〉〈朝鮮人の倭寇〉〈ポルトガル人の倭寇〉〈王直一党の倭寇〉〈徐海一党の倭寇〉〈林鳳一味の倭寇〉などがある。以上の倭寇のうち,最も規模が大きくまた最も広範囲に活動したのは14~15世紀の倭寇と16世紀の倭寇である。以下この2時期の倭寇について述べる。
この時期の倭寇は,朝鮮半島を主舞台に,中国大陸の沿岸でも行動し,高麗・朝鮮(李朝),元・明がそれぞれ被害をうけた。《高麗史》には1223年に倭寇の文字がはじめてみえる。日本側の《吾妻鏡》では,1232年(貞永1)に肥前鏡社の人が高麗で海賊をしたことを記している。しかし,高麗で倭寇の行動が大きな問題となるのは1350年以後で,この年以降は毎年のように倭寇の船団が朝鮮半島の沿岸を荒らし,全羅道や楊広道(朝鮮中西部)の被害がとくに大きかった。倭寇が略奪の対象にしたものは米穀と人民で,租粟を収める漕倉とそれを運搬する漕船が攻撃され,沿岸の人民が捕虜にされた。捕虜の高麗人は奴隷として日本の国内で使役されたり,琉球あたりにまで転売され,ときには反対給付を得てふたたび朝鮮に送り返すことも行われた。倭寇の構成員には,対馬・壱岐・松浦地方の名主,荘官,地頭などを中心とする海賊衆,海上の浮浪者群,武装商人などとともに,朝鮮で禾尺(かしやく),才人(さいじん)とよばれた賤民があった。
高麗では,武力をもって倭寇に対抗するだけでなく,使者を日本の要路に送って倭寇の禁止を要求した。しかし十分な成果があがらないうちに高麗王朝は滅亡し,朝鮮王朝(李朝)が成立した。朝鮮では外交折衝による倭寇鎮圧政策を継続するとともに,国軍を整備し,さらに倭寇を直接懐柔する政策を採用した。朝鮮の懐柔策に従って投降した倭寇は向化倭人(こうかわじん)とよばれ,官職をうけ,衣料や住居をあたえられた。倭寇はほかに使送倭人とか興利倭人とよばれて貿易に従う者,従来通り海賊行為をする者などに分かれ,しだいに消滅していった。対馬の宗(そう)氏は朝鮮から渡航者を統制する特権をあたえられ,日朝通交の管理者の立場を確保した。
朝鮮半島を襲った倭寇は,その行動の地域を中国大陸にのばし,元・明を攻撃した。明では,沿岸の警備を固めるとともに,太祖洪武帝は日本の征西将軍懐良(かねよし)親王と交渉して倭寇を取り締まらせようとしたが成果があがらなかった。成祖永楽帝のとき,足利義満とのあいだに通交関係が成立し,倭寇の勢いは鎮静におもむいた。
勘合船による日明間の通交が途絶したころから,中国大陸沿岸に大倭寇が発生した。最もはげしかったのは明の嘉靖年間を中心に,隆慶・万暦とつづく約40年間である(嘉靖の大倭寇)。この時期の倭寇は日本人の参加数が少なく,大部分は中国人の密貿易者とそれに従う人びとであった。またこのころ東アジアの海域にはじめて姿をあらわしたポルトガル人も倭寇の同類としてあつかわれた。明では太祖以来海禁という一種の鎖国政策をとって中国人が海上で活動するのを禁じていたが,経済の発達につれこの政策の維持は困難になり,多数の海上密貿易者が発生した。彼らは郷紳(きようしん),官豪(かんごう)などとよばれた地方富豪層と結びながらさかんに密貿易を推進した。ポルトガル人も明政府から官許が得られずに密貿易に加わり,日本商船も国内の豊富な銀生産を背景にしてこれと合した。中国の官憲はこれらを一括して倭寇とした。浙江省の双嶼や瀝港が貿易の基地となったが,これらの地が中国官憲の攻撃によって潰滅すると,密貿易者は海賊群にかわった。日本人では薩摩,肥後,長門,大隅,筑前,筑後,日向,摂津,播磨,紀伊,種子島,豊前,豊後,和泉などの人が倭寇に投じた。倭寇の首領として有名なのは王直(おうちよく),徐海(じよかい)などである。王直は日本の平戸・五島地方を根拠として大船団で中国沿岸を攻撃した。明では,胡宗憲(こそうけん),戚継光(せきけいこう),兪大猷(ゆたいゆう)らが海防にあたり,それぞれに功績をあげた。やがて海禁令が解除されるとともに,日本における豊臣秀吉の国内統一がすすむと,倭寇はしだいにおさまった。
→勘合貿易 →日朝貿易
執筆者:田中 健夫
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中国大陸・朝鮮半島で略奪行為を行った海賊集団に対する中国・朝鮮側の呼称。おもに13~16世紀の海賊集団をさす。最盛期は14~16世紀で,14~15世紀に活動した前期倭寇(14~15世紀の倭寇とも)と16世紀に活動した後期倭寇(16世紀の倭寇とも)にわけられる。13世紀,松浦(まつら)党などが朝鮮半島を襲撃したのを初発期の倭寇とよぶ見解もある。民族・国籍をこえて連合した集団である点が特徴。前期倭寇は1350年(観応元・正平5)以降に朝鮮半島,ついで中国大陸を襲撃したもの。近年の研究では,済州島の海民や禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)とよばれる高麗の賤民などの朝鮮人が参加したとみられている。これに,朝鮮側が三島の倭寇と認識した対馬・壱岐・松浦地方を拠点とした海民などの日本人が連合し,米や人などを略奪した。明の海禁政策や,朝鮮の懐柔策,明や高麗・李氏朝鮮の要請による日本側の倭寇禁圧の結果,倭寇の多くは向化(こうか)倭人・使送倭人などの平和的貿易者に変質し鎮静化した。16世紀,アジア海域の貿易が活発化し,明の海禁政策がゆきづまり,密貿易者が横行するが,密貿易者の武装集団が後期倭寇で,中国の舟山(しゅうざん)群島や浙江(せっこう)・福建(ふっけん),日本の五島列島などで活動した。その大半は中国人で,日本人は1~2割程度,ポルトガル人・スペイン人も含まれていた。首領として,王直(おうちょく)が有名。明が海禁を緩和し,豊臣秀吉が1588年(天正16)ばはん禁止令(海賊禁止令)を発令したことで,鎮静化した。
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元・明時代に朝鮮,中国沿岸を侵寇した海賊的集団。元末明初の14世紀を中心とする前期倭寇と,16世紀後半を中心とする後期倭寇の2時期に分けられる。倭とは日本人をさすが,中国人その他も少なくなく,特に後期倭寇において著しい。前期倭寇には日本人が多く,初め主として朝鮮沿岸に出没し,ついで中国沿岸にも及んだ。朝鮮王朝の創始者李成桂(りせいけい)は倭寇の平定をもって名をあげ,明初の日明勘合貿易は倭寇対策を意味した。この結果15世紀には平和を再現したが,16世紀に入って再燃した。この後期倭寇は当時朝鮮との友好交易が破れ,日明勘合貿易も廃止されたことなどと関連し,密貿易,海賊行為の再燃したもの。中国沿岸で激しく,首領に中国人が多いのは沿岸民の海賊化,対明反抗の傾向を反映したものといえる。
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… 唐・宋時代を通じ海上交通の要衝にあたり,南海貿易に従事する中国船やアラビア船の仮泊地として利用された。また海賊の根拠地でもあり,唐代より多数の商船が略奪に遭い,明代には倭寇鎮圧のため海南兵備道を置き,警備を厳重にした。唐代には,有名な僧鑑真らが日本渡航の際,748年(天宝7)にここに漂着した。…
…16世紀中国,明の嘉靖年間(1522‐66)に中国大陸沿岸をはじめ日本・朝鮮・南洋方面などを舞台にして行動した倭寇。16世紀の倭寇の構成員は,日本人は10~20%にすぎず,大部分は中国の浙江・福建地方の密貿易者で,当時東アジアに進出してきたポルトガル人もこれに加わった。…
…このころから新しい外患が起こった。のちに明を生み出す,農民運動の流れをくんだ中国の紅巾軍(紅巾の乱)が2回にわたって侵入し(1359,61),また倭寇の襲来が激化した。高麗は室町幕府に禁圧を求める一方,防備をかためて反撃し,また倭寇の根拠地の対馬を討った(1389)。…
…
[高麗]
高麗時代に入って半島北部の開城に首都が遷り,仏教は国教として厚く保護され,全国各地に多くの寺院が建てられた。しかし,度重なる外寇,とくに高麗末期の倭寇の侵入によってその多くは焼失した。高麗時代後半の建築には強い胴張りをもつ柱,斗栱(ときよう)形式に三国時代以来の古い要素をなおも残しているが,三国統一前後から唐文化の影響を強く受けて統一新羅時代に定着した唐様式を継承している。…
…字は元敬,諡(おくりな)は武毅。1552年(嘉靖31)以後のいわゆる後期倭寇の大侵攻に当たり,総兵官胡宗憲のもとにあって,その鎮定に努力した。57年には倭寇の大頭目王直を捕らえたのをはじめ,63年の平海衛の戦でも倭寇の主力を撃滅し,兪大猷とともに偉功をたてた。…
…これら海上勢力と幕府との関係に注目すると,一部は守護体制の枠内でとらえられていたが,守護体制の枠外にあって将軍直参(じきさん)として公方(くぼう)奉公の形をとったものもあった。鎌倉後期から大陸沿岸を荒らした倭寇(わこう)には瀬戸内の海上勢力も含まれていた。南北朝期に倭寇の禁圧と引きかえに貿易の利をおさめる政策がとられ,ついで義満の勘合貿易開始以後倭寇は減少したが,以後も瀬戸内住民の倭寇は跡を絶たなかった。…
…1562年に中国,明の鄭若曾によって編集された海防のための倭寇研究書。13巻。…
…山城は,異民族の侵略が度重なる北方では城壁や城門に巨石を用いた巨大なものが多く,異民族侵略の少ない南方では,小型の山城を使用していた。しかし,14世紀以降,倭寇の侵略にあうと,南方の山城も強大になり,組織化された。豊臣秀吉の侵略時には,これに対抗するため100城以上の山城が築城され,義兵の根拠地にもなった。…
… この時期は日本・高麗間に国交はなかったが,1019年刀伊の入寇を契機に,九州や壱岐,対馬から貿易船が通うようになった。モンゴル襲来後この貿易は断絶,さらに高麗の弱体化と南北朝内乱などの原因が重なり,1350年(正平5∥観応1)以後,大規模な倭寇が高麗沿岸から中国遼東半島を襲った。倭寇は対馬,壱岐,松浦地方の住民が主体で,対馬を根拠地にして,米豆などの食糧と住民を略奪した。…
…また日本遠征の失敗後,元の官吏は日本商船に高い関税をかけるなどして圧迫し,日本商船との間に衝突がおこった。ときに武力衝突に至ることもあり,これが常習化してやがて倭寇(わこう)となった。元からの輸入品には銅銭,陶磁器,香料,薬材,書籍,経典,絵画,茶,織物などがあり,日本では唐物として珍重され,日本の経済や文化に大きな影響を与えた。…
…15世紀から17世紀にかけて,日本と中国の明との間で行われた貿易。勘合貿易と俗称されている勘合船による貿易と,倭寇(わこう)などによって行われた密貿易とがある。足利義満が明との通交開始に成功したのは,15世紀の初め博多商人肥富(こいつみ)が明から帰って通交の利を義満に説いたのが原因であったという。…
…語源は外国語であるという意見が有力である。ただ江戸中期に書かれた《南海通記》が倭寇(わこう)が八幡宮の幟(のぼり)を立てていたので八幡船と呼ばれたと書いたところから,ばはん船は八幡船であり,すなわち倭寇の異名であるとする考えが広く流布するようになった。【田中 健夫】。…
…北虜とは明を北方から侵略したモンゴル族のこと。南倭とは東南沿海を侵略した倭寇を指す。1449年(正統14),オイラート部のエセンが侵寇して土木の変を引き起こし,明は大きな打撃を受けた。…
…しかし南北朝動乱の終結により軍事的結束を主目的とする一揆は消滅しているが,郡内各地に居住する小範囲の住人による惣的結合が結ばれ,惣構成員の行動を制約し,共同体の共存を図っている。室町時代の松浦党は倭寇として活躍しており,朝鮮,中国側では松浦地方を倭寇の根拠地と考えていた。室町幕府は中国側よりの倭寇取締り要求によって,勘合貿易を行うことになったが,松浦党は勘合貿易から締め出されていたので,従来どおり武装して密貿易を強行することを余儀なくされていた。…
…厳嵩は帝の信任を背景として権勢をふるったが,その力はもっぱら蓄財に注がれ,政治上は目前を糊塗するに終始し,最後は弾劾を受けて罷免された(1562)。 北でモンゴル人の侵入がくり返されている間に,東南沿海地方では後期倭寇の騒乱が起こった。両者は北虜南倭と併称されるが,経済的要求に対して明朝の対応が適切でなかったと考えられる点では,両者共通の契機があった。…
…厳嵩は帝の信任を背景として権勢をふるったが,その力はもっぱら蓄財に注がれ,政治上は目前を糊塗するに終始し,最後は弾劾を受けて罷免された(1562)。 北でモンゴル人の侵入がくり返されている間に,東南沿海地方では後期倭寇の騒乱が起こった。両者は北虜南倭と併称されるが,経済的要求に対して明朝の対応が適切でなかったと考えられる点では,両者共通の契機があった。…
…実学儒教朝鮮文学李朝美術
【日本との関係】
518年に及ぶ李朝時代は日本の室町時代から明治時代までにほぼ対応する。
[高麗末・李朝初期]
この時期における日朝間の最大の問題は倭寇であった。高麗末期,高麗政府は軍備強化,対馬(倭寇の根拠地)攻撃,倭寇禁圧要求使節の日本派遣など,倭寇対策に力を入れたが,李朝政府もこの政策をひきつぎ,防備体制を固めるとともに室町幕府や西日本の諸大名に使節を送って倭寇禁圧を要求した。…
※「倭寇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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