日本大百科全書(ニッポニカ) 「嵐山甫安」の意味・わかりやすい解説
嵐山甫安
あらしやまほあん
(1633―1693)
江戸前期のオランダ流外科医、通詞(つうじ)。平戸(ひらど)の生まれ。名は春育、李庵と号した。本姓は判田。祖父の代に筑前(ちくぜん)国(福岡県)から平戸に移り、父三郎兵衛尉(じょう)はオランダ通詞。甫安は平戸藩主松平鎮信(しずのぶ)の抱え医師。1661年(寛文1)藩主の命で長崎へ行き、オランダ商館医カッツAlmanus Katz(生没年不詳)、ブッシュDaniel Busch、ハルムHalmに外科を学び、「医術証明書」を受けた。オランダ商館長参府の際、カッツに同道もした。のちに有馬温泉で病をいやし、京都で関白一条冬経(ふゆつね)(兼輝(かねてる)、1652―1705)などの治療に効をあげ、法橋(ほっきょう)に叙せられ、嵐山姓を授与された。開業し、1687年(貞享4)に兎唇(としん)(口唇裂)手術を行った。1683年(天和3)に膏油薬(こうゆやく)用法を重点とした『蕃国治方類聚的伝』などを著した。門下に桂川甫筑(ほちく)らがいる。
[末中哲夫]