有馬郡(読み)ありまぐん

日本歴史地名大系 「有馬郡」の解説

有馬郡
ありまぐん

摂津国の郡名。古代から存在し、昭和三三年(一九五八)消滅した。「和名抄」東急本国郡部の読みは「阿利万」で、「延喜式」の諸処にみえる振り仮名も「アリマ」である。古代から近代まで摂津国西部に位置し、東は川辺かわべ郡、南は六甲ろつこう山を境に武庫むこ郡・兎原うはら郡・八部やたべ郡、西は播磨美嚢みなぎ郡、北は丹波多紀たき郡に接していた。現在の行政区画で示すと三田市の大半と神戸市北区の約半分の地域、西宮市北部にあたる。四方を山地に囲まれ、ほぼ中央を武庫川が支流の相野あいの川・青野あおの川・くろ川・内神うちがみ川・八多はた川・有野ありの川・有馬川などを集めて南東へ流れ、三田盆地を中心に山地と小規模な谷平野によって形成される。

〔古代〕

「摂津国風土記」逸文(釈日本紀)に「有馬の郡、又、塩之原山あり、此の山の近くに塩の湯あり」と郡名がみえる。有馬温泉(現北区)は古くから知られ、「日本書紀」には舒明天皇が三年九月と一〇年一〇月とに「有間温湯」に行幸した記事がみえ、孝徳天皇も大化三年(六四七)一〇月一一日に左右大臣以下を従えて行幸している(同書)。孝徳天皇の行幸については前掲逸文にも久牟知くむち山の地名の由来として、行宮造営に用いた材木が美麗だったので、功ある山として功地くうち山と名付けられたものが訛ったとの説話がみえる。都から有馬温泉への道程は猪名いな野を経るか海路武庫津へ上陸したらしく、「万葉集」巻七に収める「しなが鳥猪名野を来れば有間山夕霧立ちぬ宿は無くて」の歌は、一本には「猪名の浦廻を漕ぎ来れば」とある。なお奈良時代までは「有間」と記される場合が多いが、平安時代以降「有馬」と記す例(「小右記」万寿元年一〇月二五日条など)が多くなる。

「和名抄」東急本は春木はるき幡多はた羽束はつかし大神おおみわ忍壁おしかべの五郷をあげており、このうちの幡多・忍壁の二郷は上下に分れていた。同書高山寺本には大神郷の記載がなく、名博本には幡多郷の上下の記載がない。養老令の基準では下郡(「令義解」戸令定郡条)。「延喜式」神名帳は当郡三座として有間神社・「公智クチノ神社」「湯泉ユノ神社」の三社をあげ、うち「湯泉神社」は大社である。なお羽束郷にあたる現三田市酒井さかいに所在する高売布たかめふ神社は河辺かわべ郡にあげられており、郡界の移動も考えられる(有馬郡誌)。郡内に存在した氏族としては、元慶四年(八八〇)一〇月二七日に有馬郡人无位川原公于被が河辺郡の川原公福貞ら五人とともに、宣化天皇第二皇子火焔王の後の故をもって課役の免除を願出て許されている(三代実録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報