日本歴史地名大系 「加世田市」の解説 加世田市かせだし 面積:九四・三七平方キロ薩摩半島の南西部に位置し、北東は日置郡金峰(きんぽう)町、東は川辺郡川辺町、南は枕崎市、西は川辺郡坊津(ぼうのつ)町・大浦(おおうら)町に接し、北西は東シナ海に面する。金峰町との境を南薩地方最大の河川である万之瀬(まのせ)川が流れて東シナ海に注ぎ、同川とその支流大谷(おおたに)川・加世田川・内府(ないふ)川・立神(たてがみ)川などの流域に集落が発達している。半島の西岸を縦走する国道二七〇号から国道二二六号や主要地方道加世田―川辺線などが分岐し、その他の支線も整備されて交通の便はよい。万之瀬川河口付近は吹上(ふきあげ)浜の砂丘南端部にあたり、吹上浜県立自然公園の一部である。〔原始・古代〕万之瀬川および加世田川などの周辺には、多くの遺跡が存在している。旧石器時代の遺跡は大谷川流域の台地にある。川畑(かわばた)の祝原(いわいばら)遺跡ではナイフ形石器文化のナイフ形石器・石核などが発見され、当市では最も古い遺物である。細石器文化になると、川畑の平田尻(ひらたじり)遺跡や祝原遺跡で細石刃・細石刃核・スクレーパーなどが出土しており、平田尻遺跡では礫群一基も発見された。縄文時代になると、草創期から晩期までの多くの遺跡がみられ、大遺跡も存在している。村原の栫ノ原(むらはらのかこいのはら)遺跡では草創期の集石遺構・連穴土坑などが発見され、隆帯文土器とともに多様な磨製石斧などが出土、当時の優れた文化を示している。内山田の志風頭(うちやまだのしかぜがしら)遺跡でも同時期の連穴土坑などが発見され、完形の隆帯文土器が出土。早期になっても栫ノ原遺跡では長期にわたる生活の跡がみられ、川畑の神山(かみやま)遺跡などでは押型文土器が採集されている。中期になると津貫の石堂(つぬきのいしどう)遺跡で阿高式土器・並木式土器が、後期には栫ノ原遺跡で岩崎上層式土器・市来式土器、石堂遺跡で出水式土器、川畑の富が岡(とみがおか)遺跡で御領式土器が出土。晩期前半の上加世田式土器の時期には川畑の上加世田(うえかせだ)遺跡で大規模な祭祀が行われたほか、黒川式土器の時期に川畑の加治屋(かじや)・遠見が丘(とおみがおか)、武田(たけだ)の上ノ城(うえんじよう)、栫ノ原などの遺跡で生活が営まれており、広範囲での生活が推測される。広い平野をひかえたこの地は、弥生時代後期から古墳時代にかけての多くの遺跡が集中している。栫ノ原遺跡では弥生後期に三軒、古墳後期にも三軒の住居がつくられており、須恵器や刀子を伴出した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by