左沢町(読み)あてらざわまち

日本歴史地名大系 「左沢町」の解説

左沢町
あてらざわまち

[現在地名]大江町左沢

最上川に月布つきぬの川が合流する地点に位置し、北は丘陵地で谷沢やさわ(現寒河江市)に接し、東は最上川が大きく曲流し、対岸中郷なかごう村・雨池あまいけ(現同上)がある。南はほぼ月布川を境にして藤田ふじた村、西はいちさわ川で小漆川こうるしがわ村と境する。地名語源は諸説がある。最上川を本体として、右方―こちら・左方―あちらに分け、上流から見て左の沢をさした。寒河江さがえ城主大江氏が長岡ながおか(現寒河江市)に登り、西方の山谷をさしてあちの沢とよんだことからあてら沢となり、左の字が当てられたという伝承。富沢とみざわの西にある日光につこう山に登り、東から昇る太陽を礼拝したとき、左方に見える沢をあてら沢とよんだ。アイヌ語のあっちゃけ(対岸・向岸)の意からきたもので、最上川の対岸の位置を表す。以上いずれも地形との関連があり、川の左岸に位置することからきた地名といえる。北の丘陵たて山に左沢城跡があり、大江時茂の子元時が城主となり左沢氏を称した。二代氏政は左沢式部少輔で(「安仲坊系図」安仲坊大江文書)、七代満政は左沢善三郎とよばれ、松蔵寺幹縁疏(広谷常治氏蔵)に文明一一年(一四七九)のこととして、「三男名摂津守厚久是者同国左沢村為居城」とある。左沢城は大江氏にとって重要な月布川の渓口部にあたり、南の五百川いもがわ(現朝日町)方面に対する備えであった。左沢元時は兄の溝延茂信らと、正平二三年(一三六八)漆川で斯波兼頼軍と戦って敗れ、このあと大江氏は北朝に降った(西村山郡史)。左沢氏は元時のあと氏政まで八代続き、その間文明年間には伊達成宗と戦い、永正(一五〇四―二一)以後は最上義定と争っている(安仲坊系図)。天正一二年(一五八四)大江高基は最上義光に滅ぼされ、左沢城には高二千三〇〇石を領する長尾右衛門が封じられた(「最上義光分限帳」色川文書)。これには日野将監とする説もある(「宗古録」大江町史資料・補出羽国風土略記

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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