日本歴史地名大系 「市小路町」の解説
市小路町
いちしようじまち
呉服町下の北に続く南北道に沿う両側町。南から市小路町上・市小路町中・市小路町下と並び、南は
天正期から寛文(一六六一―七三)初期の博多年行司徳永宗也は博多の惣司として公税等の業務もつかさどり、屋敷の背後には裏町に続く津内の収納蔵があったという。宗也の屋敷は当町西側にあったというが、一説には東側とも、あるいは東西両側ともいう。のちに白水氏の宅地となった東側の屋敷地は古くは法性寺の境内で、博多町割以来表口二四間一軒の地であったという(石城志)。慶長年中の福岡城築城の時、初代藩主黒田長政は宗也宅に滞在したと伝える(同書)。慶長一三年七月、長政は宮崎織部と宗也に「博多福岡町人五人組之儀」について申渡している(「長政公御代御書出令条」九州史料叢書)。宗也は幕府の朱印状獲得にも奔走したらしく(一一月二四日「黒田長政書状」石城志)、その結果「博多宗也内 大賀九郎左衛門」に対して暹羅(シャム)行きの朱印状が下付されている(通航一覧)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報