デジタル大辞泉
「裏町」の意味・読み・例文・類語
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うら‐まち【裏町】
- 〘 名詞 〙 表通りの裏側にある町。裏通りの町。うらちょう。⇔表町。
- [初出の実例]「うら町でげい子おも荷をおろす也」(出典:雑俳・柳多留‐一四(1779))
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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裏町
うらまち
[現在地名]上山市裏町・松山二―三丁目・石崎一―二丁目・河崎三丁目・八日町・東町・美咲町一―二丁目・長清水一―三丁目・二日町・栄町一―二丁目・北町一―二丁目・四ッ谷一―二丁目・弁天一―二丁目・大石一丁目・矢来二―四丁目・石堂・南町
十日町通と同時代に、その脇町としてつくられたらしく、十日町から東方約二〇メートル離れて並行する。浦町とも記す。道幅は三間で狭く、人家も道路の東側、前川との間に限られる。矢来橋ができるまでは川向橋により本庄郷・生居郷・中川郷に通ずる城下からの出入口であった。
裏町
うらまち
[現在地名]長岡市本町一―三丁目・表町一―四丁目・柳原町・渡里町
文化二年(一八〇五)写延宝年中(一六七三―八一)の長岡町割絵図(安禅寺文書)によると、東の表町と道幅六間半を隔てる。南から北へ裏一之町から裏四之町が続き、背中合せに東西に家並を連ねる。西は上田町、北に呉服町が丁字形に接する。家数は裏一之町東側一七・西側一八、裏二之町東側一八・西側一五、裏三之町東側一〇・西側一五、裏四之町東側一六・西側一一。
裏町
うらまち
[現在地名]結城市結城 浦町
大町の南に位置。大町・西宮町とともに結城城下の中心。文禄年間(一五九二―九六)の新城下建設によって成立した町で、地子免除地。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によれば、町中間数は三町四二間。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば店借り二一・寺社門前一二を含む一一七軒の家があり、他に称名寺・六本寺・般若院・宝光院・乗遍院・密語院・牛頭天王社(須賀神社)、番屋四があった。
裏町
うらまち
[現在地名]岡崎市花崗町
伝馬町の北側裏に平行して東西に通ずる町。東は八軒町、西は組屋敷の片端町に続く。町の長さ一一九間・幅三間。町名は東海道筋伝馬町の裏筋であるところからよんだものである。寛文元年(一六六一)の検地帳があるので、寛永(一六二四―四四)頃からしだいに開かれてきたものであろう。この町は石工をもって名高く、石切町ともよばれ、明治以後花崗町と改名するのも岡崎特産の花崗石をもって製する石工が多く住んだためである。
裏町
うらまち
[現在地名]伊勢崎市三光町・本町
本町通の南側に並行して位置し、東西に連なる両側町。稲垣氏時代からの町。「伊勢崎風土記」に「古の街巷は東西に横たわりき。今の不動院の前面より、鉦打郭に至る。これを茂呂越町と号けぬ」とあり、裏町・西町付近のことと思われる。不動院は表門先から南約三八間余にあり、千手(千寿)院とも称された。西町通の北端から南約四九間のところを東に入ると裏町通となる。
裏町
うらまち
[現在地名]宇都宮市泉町
池上町の北裏にあたる町人町。東は粉河寺前および杉原町、西は小伝馬町に続く。西に高く東に低いなだらかな坂道の町並。近世初め池上町から分れたといい、松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)には池上裏町と記される。元和五年(一六一九)本多正純による町の割替えに際し、「池上裏町分リテ小伝馬町出来ル」とある。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は小伝馬町と一緒になっていたと思われ、城内草刈人足は二〇人を差出す(宇都宮史)。
裏町
うらちよう
[現在地名]三島市中央町
東海道に沿う久保町の北側に位置する町。三嶋明神(三嶋大社)の西側を流れる祓所川(現桜川)西側の祓所町、久保町の西端近くから北に入る問屋小路と交わる。寛文八年(一六六八)の拝借米渡帳(三島市誌)に町名がみえ、町の長さ八六間。貞享五年(一六八八)の家数四九(家持三〇・借屋一八・寺門前一)、町の長さは右に同じで、うち祓堂二二間・問屋小路二〇間(三島町外万覚帳)。寛政一〇年(一七九八)の三島宿明細帳(秋山家文書)には横町筋の箇所に祓所町二六間、問屋小路二〇間、新谷橋より赤橋四〇間と記され、裏町の町名はみえないが、祓所町・問屋小路とは分離して記載されている。
裏町
うらまち
[現在地名]和歌山市木広町二丁目・吹屋町二丁目
一里山町の東の町。「紀藩街官司秘鑑」に「裏町之内をヤイトバシ共、元庚申とも唱」とあり、吹屋町の庚申堂(功徳寺)の旧地であったと考えられる。「続風土記」によれば夜燈橋という小橋があった。文政一三年(一八三〇)の丁名増改時略図(田中家蔵)によれば南北約七六間。
在中作方諸事覚書(土屋家蔵)によれば享保一一年(一七二六)には新内村のうち「西ハ古町並裏悪水溝限リ、北ハ田中町並裏限リ、東南ハ田地限リ并瓦町屋敷裏分共」の範囲にある裏町分の五四石余が町方支配として高付されていた。
裏町
うらまち
[現在地名]出石町宵田
宵田町の北に位置する町人町。北は西流する谷山川を境に武家町の鉄砲町。端町で、庄屋は宵田町名主が兼帯。出石封内明細帳、文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、竪町は宵田竪町の北側に並行する長さ八三間・幅三間三尺の東西路の両側町で、道の中央を幅二尺五寸の溝が流れ、西は田結庄町に続いた。南北路の横町は竪町の中央から北の鉄砲町に至る長さ一一間余・幅四間の道筋で、下横町といい、道の東側を幅二尺の溝が流れていた。竪町東端の北側から東に長さ一九間半・幅一間四尺の細間が延び、牢屋敷に至った。文化七年の城下絵図に記載される肩書や一定の職業を連想させる屋号などからみると、当時その職業を生業としていたとは断定はできないものの当町には桶屋四・魚屋三、大工・紺屋各二、塩屋・飴屋・木挽・樽屋・塗師・鍛冶屋・鍋屋・馬屋・茶碗屋・髪結・ギボシ屋各一などがおり、ほかに宮津屋など屋号のある家(職種不明)一〇、小使・作人各一、郡組・中間などの下級武士の家一二。
裏町
うらまち
[現在地名]遠野市中央通り
横田五町の一町。一日市町の北裏にあたる町並で、同町に並行して東西に延びる。西は大工丁。延宝九年(一六八一)の巡見使御答書上帳(遠野市立図書館蔵)に町名がみえる。新町とも称した(遠野史叢)。宝永二年(一七〇五)遠野南部氏直義の火葬地の跡に黄檗宗放光山感応院が開創されたことから、北側に感応通が開かれた(遠野市史)。延宝九年の家数五二(うち借家一八)・人数二〇九、馬四五(巡検使御答書上帳)。
裏町
うらまち
[現在地名]宇和島市新町二丁目・中央町一―二丁目・本町追手一―二丁目・愛宕町三丁目
裡町とも書く。本町の東側の通り。本町に対し裏町といわれ、一丁目から五丁目まであった。小字に柳横丁・六兵衛坂・御油屋横丁・富士屋横丁・山木横丁・土居の横丁がある。山木横丁は町頭をつとめた内山段右衛門の屋号によるという。油と木蝋の専売権を持ち、三座の一人に数えられた豪商である。
裏町
うらまち
[現在地名]黒石市浦町一―二丁目
黒石陣屋の東北にあたり、南は山形町、北は浜町に接する。浦町とも記された。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)には裏町はみえないが、黒石神明宮のことを記した御宮伝記神職由緒留書(黒石地方誌)の享保一四年の記事に「浦町名主 斎藤権三郎」とあり、享保頃にはすでに町はできていた。文化一三年(一八一六)の南部藩の隣国便覧秘集(国会図書館蔵)に「足軽二十人、二人扶持十五俵の由(中略)裏町といふ処に組町御座候」とあり、裏町には足軽組が居住していた。
裏町
うらまち
[現在地名]高山市有楽町
宮川の西側に位置し、町の長さ一町半(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)。三之町村に含まれ、東は上向町・中向町、南は八軒町。町名は向町の裏にあることからよばれたもので、前掲三町村覚帳には向裏町と記される。
裏町
うらまち
[現在地名]吉田町裡町
町人町の東部を占め、西方は本町に接し、東方は山麓の立間尻浦となる。東北方は大工町と接する。現在の吉田町の市街地内にあった。
南北に通じる街路は、町人が家中町の通行を禁じられていた関係で、宇和島方面と交通する旅人の往来が頻繁であった。その街路に面する地域が裏町で、北から一丁目・二丁目・三丁目に区分された。
裏町
うらまち
[現在地名]上野市伊予町
寺町の東裏側にあり、寺院の仕事に従事する者が多かったため、寺町の裏という意味で名付けられたのであろう。元禄年間(一六八八―一七〇四)の改称。東使監藩問対案(宗国史)には二番町と記されるが、二番は裏の写し誤りであろう。延宝(一六七三―八一)頃の家数一二(統集懐録)。町内には菅原天神の社有地もあり、天神境内の薬師寺の下屋敷ならびに墓地もあった。
裏町
うらまち
[現在地名]角館町裏町
内町の一町で城下町の北部にあり、表町の東に平行して走る通り。南は勝楽町。
北家が所預となってからの記録と思われる蘆名盛俊代蘆名家中屋敷割図(角館誌)によれば、通りの東に一七軒、西に一九軒の屋敷があった。享保年間(一七一六―三六)の角館町町割図(角館町立図書館蔵)によれば、三二軒のうち三軒が空屋敷で、同時期の郡村記(県立秋田図書館蔵)には士家三一軒とある。
裏町
うらまち
[現在地名]下関市赤間町
稲荷町の西側に開かれ、南北に細長い町。寛保二年(一七四二)に描かれた「御国廻御行程記」の絵図には「奥小路」とみえる。
尾張の商人菱屋平七の「筑紫紀行」享和二年(一八〇二)四月一八日に「五年ばかり前迄は裏町といふにも、揚屋町のありし由なれど」とみえ、稲荷町に関連して茶屋・料理屋があった。ジーボルトの「江戸参府紀行」の一八二六年(文政九)三月一日に「小さいほうの通りのうちには、稲荷の社と娼家に通じる稲荷町、芝居小屋に行ける浦町」とみえる。
裏町
うらまち
[現在地名]柳川市蟹町
宗元町から北に続く通りに沿った片側町。町人地。東には中町・上町、西には蟹町が並行して走る。南は八百屋町、北端は蟹町の東部に至る。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数二一。
裏町
うらまち
[現在地名]大洲市大洲 末広町
大洲城下町の南端にあり、本町・中町と平行する東西の通り、長さ約三町足らず、上記二町に比し短い。寛永二〇年(一六四三)の大津惣町中之絵図(大洲町役場旧蔵)によれば、北側二〇軒、南側三二軒の町家があった。慶安四年(一六五一)の大洲町十人組帳(菅菊太郎氏蔵)によれば、十人組が七組あり、七二人の町人が住んでいた。
裏町
うらまち
[現在地名]大館市裏町
桂城南側に位置する武家町。西は外町に隣接、東は部垂町、南には向町がある。「六郡郡邑記」に「裏町」とみえる。大館所預の家士が居住したという(大館地方史)。
裏町
うらまち
[現在地名]久留米市松ヶ枝町
原古賀六―七丁目の西手にある武家地。三潴郡大隈村裏町名の地で、扶持人が多く居住した。天保城下図ではウラマチと記される。
裏町
うらまち
[現在地名]西尾市弥生町
鶴ヶ崎天神から東北に向かう町並、馬場町と平行する。天神社神主小笠原左京家を含め一三の屋敷がある。足軽屋敷一〇、侍屋敷一、小役人屋敷一の足軽居住地域。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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