平佐城跡(読み)ひらさじようあと

日本歴史地名大系 「平佐城跡」の解説

平佐城跡
ひらさじようあと

[現在地名]川内市平佐町

川内川支流隈之城くまのじよう川に注ぐ平佐川右岸の低平地に、東から西に延びる標高三〇メートルを最高所とする緩い起伏のあるシラス丘陵の先端に築かれた山城諏訪之尾すわのお城ともいう(島津国史・三国名勝図会)。「薩隅日三州他家古城主来由記」は隈之城とともに薩摩郡司忠友を最初の城主とし、その子孫が居住したとするが、確認できるのは、総州家島津師久の子伊久次男の忠朝が応永一四年(一四〇七)に当城を拠城としていたことまで下る。南北朝期以降碇山いかりやま城を本拠とした総州家は、一四世紀末伊久の代から同城南約一キロに位置する当城を使用しはじめた。応永一四年伊久は本拠としていた平山ひらやま(現川辺町)伊集院頼久に追われて忠朝の守る当城に移り、五月四日(四月六日とも)ここで没した。直後に当城は奥州家の元久により攻略され、忠朝は城を放棄した(「応永記」「島津国史」、同一五年一〇月一〇日「比志島義勝軍忠状」比志島文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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