平泉村(読み)ひらいずみむら

日本歴史地名大系 「平泉村」の解説

平泉村
ひらいずみむら

[現在地名]平泉町平泉、一関市中里なかさと

中尊寺村の南に位置し、村内を南北に奥州街道が通り、南の中里村(現一関市)に向かう。西の達谷たつこく村から東流する太田おおた川が北上川に合流。村の中央、金鶏きんけい山南麓に毛越もうつう寺がある。北上川沿岸には高舘たかだちやなぎ御所跡・伽羅きやら御所跡・葛西かさい屋敷跡、国衡・忠衡・隆衡の屋敷跡などの旧跡がある。中央部には倉町くらまち泉屋いずみやなどの字名が残り、南の祇園ぎおんに八坂神社(旧南方鎮守祇園社)、さらに南方大佐おおさに日吉神社がある。中世には平泉保の中心に位置した。また建武元年(一三三四)八月日の中尊寺大衆訴状案(中尊寺文書)みえる毛越寺新熊野社別当領の太田庄は太田川流域に比定され、別当職・太田庄預所職は毛越寺の進止とされていた。

平泉村
ひらいずみむら

[現在地名]神栖町平泉

北東は深柴ふかしば村、西は筒井つつい村。天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「三百六石七斗八升 平いつミ」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は二七四石余で、旗本爪木・松平両氏が支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報