平盛子(読み)たいらのせいし

朝日日本歴史人物事典 「平盛子」の解説

平盛子

没年治承3.6.17(1179.7.23)
生年保元1(1156)
平安末期の女性。平清盛の娘。関白藤原基実の妻。高倉天皇の准母。従二位。白河殿,八条准后と呼ばれた。長寛1(1163)年3歳の皇子(高倉天皇)を猶子とし,翌年9歳で結婚。仁安1(1166)年皇子の立太子に伴い准三后となるが,同年11歳で夫基実と死別。その際,基実の継子基通(7歳)の養育に当たるという名目で日本最大の荘園領である摂関家領の大部分を伝領したが,これは実質的には平家横領であった。清盛の勢力拡大策に踊らされた一生を送ったが,24歳で没したときには今度は盛子領を後白河法皇が没収したため清盛の怒りを買い,治承3(1179)年11月の,清盛が後白河法皇幽閉などを強行したクーデタ一因となった。

(櫻井陽子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平盛子」の解説

平盛子 たいらの-もりこ

1156-1179 平安時代後期,平清盛の娘。
保元(ほうげん)元年生まれ。摂政近衛基実と結婚したが,11歳のとき基実が死亡,摂関家の遺領をすべて相続し,清盛が盛子を後見する。仁安(にんあん)2年高倉天皇の准母,准三后となった。治承(じしょう)3年6月17日死去。24歳。通称は白河殿。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の平盛子の言及

【平清盛】より

…とくにかつて平家の保護者的立場にあった後白河院とは,清盛の権力集中にともなって対立が深刻化し,1177年(治承1)には院近臣による平家討滅の陰謀が露顕するに至った(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)。これを契機に清盛と院とは鋭い対立を見せ始め,79年6月平盛子が死去すると,その遺領を院が没収し,7月清盛の嫡子重盛死去の際にはその知行国越前を院が奪うに至った。そこで同年11月清盛は大軍を率いて福原から上洛し,後白河院を鳥羽殿に幽閉し,院に近い公家39名の官を解いて親平家派の人々をこれに替えた。…

※「平盛子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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