(元木泰雄)
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平安末期の武将。源義親(よ)(しちか)の四男(一説に五男)。叔父義忠の,ついで祖父義家の養子となり嫡流を継ぐ。藤原頼長に臣従。六条堀河に住み六条判官(ほうがん)と呼ばれた。1109年(天仁2)2月14歳のとき源義家の弟義綱を近江で捕らえる。同3月左衛門尉,46年(久安2)検非違使(けびいし)となる。54年(久寿1)子源為朝の九州における乱行により解官(げかん),家督を長子義朝に譲る。56年(保元1)7月保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長方にくみし敗れる。後白河天皇方についた長子義朝の助命嘆願も及ばず,7月30日行方不明の為朝を除く子息5人とともに,義朝により斬首された。為義については検非違使が実検して処刑の真偽を確かめたという。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流義家(よしいえ)の孫、義親(よしちか)の子。父が追討されたのち、叔父義忠(よしただ)の、ついで祖父義家の養子となって正嫡を継ぐ。六条堀河に住んだところから六条判官とよばれた。悪左府(あくさふ)藤原頼長(よりなが)の従者となる。源氏内紛の続発するなかで、1109年(天仁2)義家の弟義綱(よしつな)を追捕(ついぶ)、左衛門尉(さえもんのじょう)となる(14歳)。のち検非違使(けびいし)。54年(久寿1)男為朝(ためとも)の鎮西(ちんぜい)における乱行により解官(げかん)される。56年(保元1)7月、義朝(よしとも)を除く子息らを率いて保元(ほうげん)の乱に参戦、崇徳(すとく)上皇・藤原頼長方にくみして敗れる。同月30日、嫡男義朝によって、他の子息らとともに斬首(ざんしゅ)された。61歳。
[飯田悠紀子]
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1096~1156.7.30
平安後期の武将。義親の子。六条判官と称する。1108年(天仁元)父が平正盛に追討されたため,叔父義忠ついで祖父義家の養子となり,源氏の正嫡となる。翌年,義家の弟義綱追捕の功により左衛門尉に任じられた。その後,平氏とともに寺社の強訴の鎮静化などに活躍。43年(康治2)には藤原頼長に従い,46年(久安2)検非違使(けびいし)に任官。54年(久寿元)子の為朝の乱行の責めをうけて解任,家督を嫡子義朝に譲った。56年(保元元)保元の乱に際しては,子6人とともに崇徳(すとく)上皇・藤原頼長側に加わって敗北。延暦寺で出家し,義朝のもとに投降した。義朝は助命を嘆願したが,いれられず斬首された。
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…義光は園城寺をはじめ近江と関係が深く,その子孫は,常陸に土着して佐竹氏となったもののほかは,多くは近江,とくに湖東地方で栄え,山本(東浅井郡湖北町),柏木(甲賀郡水口町),箕浦,錦織(大津市)の諸氏となった。平安後期には源為義に従っていたようであり,保元の乱(1156)に敗れた為義が大津から舟で箕浦に渡ったという風聞があったし,《保元物語》の一本によれば,箕浦は為義の所領であったともいう。1180年(治承4)山本義経が近江で反平氏の兵を挙げたとき,その子箕浦義明もこれに従ったが,平知盛らの追討軍に敗れ,翌81年(養和1)美濃で敗死した。…
※「源為義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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