源為義(読み)ミナモトノタメヨシ

精選版 日本国語大辞典 「源為義」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ためよし【源為義】

  1. 平安末期の武将。義家の孫。義親の子。源氏の家督を継ぎ、検非違使となり六条堀河に住んだので六条判官といわれた。保元の乱で崇徳上皇方となり、子頼賢・為朝を率いて白河殿にはいるが、敗れて捕えられ殺された。永長元~保元元年(一〇九六‐一一五六

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改訂新版 世界大百科事典 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義 (みなもとのためよし)
生没年:1096-1156(永長1-保元1)

平安末期の武将。源義親(よ)しちか)の四男(一説に五男)。叔父義忠の,ついで祖父義家の養子となり嫡流を継ぐ。藤原頼長に臣従。六条堀河に住み六条判官(ほうがん)と呼ばれた。1109年(天仁2)2月14歳のとき源義家の弟義綱を近江で捕らえる。同3月左衛門尉,46年(久安2)検非違使(けびいし)となる。54年(久寿1)子源為朝九州における乱行により解官(げかん),家督を長子義朝に譲る。56年(保元1)7月保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長方にくみし敗れる。後白河天皇方についた長子義朝の助命嘆願も及ばず,7月30日行方不明の為朝を除く子息5人とともに,義朝により斬首された。為義については検非違使が実検して処刑真偽を確かめたという。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義
みなもとのためよし
(1096―1156)

平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流義家(よしいえ)の孫、義親(よしちか)の子。父が追討されたのち、叔父義忠(よしただ)の、ついで祖父義家の養子となって正嫡を継ぐ。六条堀河に住んだところから六条判官とよばれた。悪左府(あくさふ)藤原頼長(よりなが)の従者となる。源氏内紛の続発するなかで、1109年(天仁2)義家の弟義綱(よしつな)を追捕(ついぶ)、左衛門尉(さえもんのじょう)となる(14歳)。のち検非違使(けびいし)。54年(久寿1)男為朝(ためとも)の鎮西(ちんぜい)における乱行により解官(げかん)される。56年(保元1)7月、義朝(よしとも)を除く子息らを率いて保元(ほうげん)の乱に参戦、崇徳(すとく)上皇・藤原頼長方にくみして敗れる。同月30日、嫡男義朝によって、他の子息らとともに斬首(ざんしゅ)された。61歳。

飯田悠紀子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義
みなもとのためよし

[生]嘉保3(1096)
[没]保元1(1156).7.30.
平安時代後期の武将。義親の子。祖父義家の養子となり,家督を継いだ。天仁2 (1109) 年朝命により源義綱を攻めて降伏出家させ,その功により左衛門尉に任じられた。その後京都警備にあたり,摂関家に臣従した。久安2 (46) 年検非違使になり,京都の六条堀川に住んだので六条判官と呼ばれた。久寿1 (54) 年子為朝の乱行によって解官され,家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱に際して崇徳上皇から召されて白河殿を守ったが,子義朝や平清盛らの属した後白河天皇方に敗れた。東国に逃れようとして失敗,義朝を頼って降伏した。義朝は父の助命を朝廷に願ったが許されず,為義は斬罪に処せられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源為義」の解説

源為義
みなもとのためよし

1096~1156.7.30

平安後期の武将。義親の子。六条判官と称する。1108年(天仁元)父が平正盛に追討されたため,叔父義忠ついで祖父義家の養子となり,源氏の正嫡となる。翌年,義家の弟義綱追捕の功により左衛門尉に任じられた。その後,平氏とともに寺社の強訴の鎮静化などに活躍。43年(康治2)には藤原頼長に従い,46年(久安2)検非違使(けびいし)に任官。54年(久寿元)子の為朝の乱行の責めをうけて解任,家督を嫡子義朝に譲った。56年(保元元)保元の乱に際しては,子6人とともに崇徳(すとく)上皇・藤原頼長側に加わって敗北。延暦寺で出家し,義朝のもとに投降した。義朝は助命を嘆願したが,いれられず斬首された。

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百科事典マイペディア 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義【みなもとのためよし】

平安末期の武将。義家の孫。義親(よしちか)の子。1146年検非違使(けびいし)となったが,子為朝が九州で乱行したため1154年解官(げかん)。保元(ほうげん)の乱に崇徳(すとく)上皇方について敗れ,子の義朝に斬られた。
→関連項目佐々木定綱

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源為義」の解説

源為義 みなもとの-ためよし

1096-1156 平安時代後期の武将。
永長元年生まれ。源義親(よしちか)の4男。祖父義家の養子となり,源家の嫡流をつぐ。左衛門尉(じょう),検非違使(けびいし)。保元(ほうげん)の乱で崇徳(すとく)上皇方につき,長男の義朝(よしとも)とたたかって敗北。出家したがゆるされず,保元元年7月30日処刑された。61歳。通称は六条判官。
【格言など】父を切る子,子に切らるる父,切るも切らるるも,宿執(しゅくしゅう)の拙(つたな)き事,恥ずべし,恥ずべし,恨むべし,恨むべし(「保元物語」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「源為義」の解説

源為義
みなもとのためよし

1096〜1156
平安後期の武将
義親の子。義朝の父。1156年保元の乱のとき,崇徳上皇方につき,その子義朝や平清盛と戦って敗北。乱後,義朝が助命嘆願したが許されず,斬られた。

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世界大百科事典(旧版)内の源為義の言及

【箕浦氏】より

…義光は園城寺をはじめ近江と関係が深く,その子孫は,常陸に土着して佐竹氏となったもののほかは,多くは近江,とくに湖東地方で栄え,山本(東浅井郡湖北町),柏木(甲賀郡水口町),箕浦,錦織(大津市)の諸氏となった。平安後期には源為義に従っていたようであり,保元の乱(1156)に敗れた為義が大津から舟で箕浦に渡ったという風聞があったし,《保元物語》の一本によれば,箕浦は為義の所領であったともいう。1180年(治承4)山本義経が近江で反平氏の兵を挙げたとき,その子箕浦義明もこれに従ったが,平知盛らの追討軍に敗れ,翌81年(養和1)美濃で敗死した。…

※「源為義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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