改訂新版 世界大百科事典 「治承寿永の内乱」の意味・わかりやすい解説
治承・寿永の内乱 (じしょうじゅえいのないらん)
1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けた諸国源氏の挙兵から,85年(文治1)3月長門国壇ノ浦(下関市)に平氏一門が壊滅するまで,主として源平両氏による決戦のかたちをとって進行した全国的規模の内乱。当時の年号を冠してこう呼び,たんに治承の乱,あるいは源平の合戦(争乱)とも称する。
内乱の序章
すでに12世紀中葉,全国各地では国守・目代と在地武士との対立が激化し,ときにそれは後者の反乱を惹起していた。はじめ新興武士勢力の輿望をになって政界に進出した平氏も,結局,一族による高位高官の独占,荘園・知行国の集積等,従来の政治権力と変わらない策を採った。とくに1179年11月のクーデタにより独裁体制を固めて以後は,武断的暗黒政治とあいまって,在地武士らの不満と怨嗟(えんさ)を直接受ける仕儀に陥った。もっとも,政権の最末期には武家権門らしいいくつかの新方策を試みたが,内乱の急速な展開はその結実を妨げたのである。反平氏の動きは旧勢力の中からも起こった。平氏が採った前述の策は,摂関家の伝統的政策と競合し,藤原氏を中心とする貴族層の強い反発を招いたし,ともに専制政治を志向する院権力との対立が激化するのも当然であった。ことに南都北嶺などの寺社勢力は難敵であり,これを攻撃した平氏は仏敵の汚名を被り,全面的孤立に追いやられた。かかる情勢を察した以仁王は摂津源氏の頼政を語らい,80年4月ひそかに平氏討伐の令旨を発し,園城寺を主軸とする寺院連合,近江の中小武士がこれに呼応したが,王と頼政は翌月末に戦死した。しかしこの間に,王の密旨は源行家によって諸国の源氏に伝えられた。彼らのあい次ぐ蜂起により,内乱はにわかに全国化し,源平対決の様相を呈するに至った。
内乱の全国化
配所の伊豆で令旨を得た源氏の嫡流頼朝は,8月挙兵に踏み切った。舅の北条時政と謀って同国目代山木兼隆を討ち,緒戦に快勝したものの,続く石橋山の戦(小田原市)に惨敗,かねて頼朝に内応していた相模国三浦氏の水軍の助力を得て,からくも海路を安房に逃れた。ここで態勢をたて直した頼朝は,目代の討滅と国衙行政権の接収をスローガンに,付近の武士を誘引しつつ破竹の進撃を開始,10月6日には父祖因縁の地相模国鎌倉に入り本拠と定めた。他方,維盛を総指揮官とする平氏の追討軍は,駿河国まで迫っていた。頼朝軍は足柄峠を越え,すでに同国に進攻しつつあった甲斐源氏と連合し,富士川に迎撃しようとしたが,10月20日の夜半,維盛軍は戦わずして潰走した(富士川の戦)。この戦勝の結果,東国武士のほとんどは源氏の勢力下に入ったが,駿・遠両国を甲斐源氏の一族にゆだね,頼朝は鎌倉に引き返して関東の地固めを急いだ。かくして12月,頼朝政権の誕生を告知する一大祝典が同地に挙行されたのである。このころになると反平氏の蜂起は,平氏が基盤とする西国にも広く及び,もはや収拾のつかない状態になっていた。おりからの凶作と飢饉は西日本にひどく,81年(養和1)閏2月総帥清盛を失った平氏一門の戦意は衰えるばかりだった。
一方,北陸道方面では,信濃国に挙兵した源義仲がたちまち同方面を制圧し,81年秋には越前で平氏軍とにらみ合う状況を示していた。翌年は全国的に戦線が停滞したが,83年(寿永2)5月平維盛軍を加越国境の砺波(となみ)山で撃破(俱利伽羅峠の戦)した義仲軍は,7月末入京し,宗盛以下平氏一門は幼少の安徳天皇,三種神器を奉じて西海に落ちた。しかし京都の義仲軍は統制を欠き,後白河法皇以下の権門貴族から疎まれ,源氏の宗主権をめぐる義仲・頼朝の対立も深刻化した。彼の上洛を待望する声が募るなか,頼朝はひそかに法皇と交渉し,〈寿永の宣旨〉を獲得した。この和議の成立により追い詰められた義仲は,11月クーデタを断行したが,翌84年(元暦1)1月頼朝が範頼・義経に付けて西上させた軍勢と宇治川に会戦して敗れ,逃走の途中近江国粟津(大津市)で戦死した。
平氏一門の滅亡
他方,一時は遠く九州に退いた平氏は,源氏の内紛に乗じて勢力を挽回,旧都福原(神戸市)まで東進して京都回復をめざすに至った。新たに平氏追討の院宣を得た範頼・義経は,84年2月二手から福原を突き,義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲により一ノ谷の軍陣を破った(一ノ谷の戦)。平氏方は多くの部将を失い,讃岐国屋島(高松市)に後退した。しかし源氏の軍は兵粮米や兵船の不足から,ただちに追撃できず,ようやく義経が渡海に成功,屋島の陣営を強襲したのは翌85年2月のことだった(屋島の戦)。平氏は長門彦島に移り劣勢を支えようとしたが,逆に制海権を握った義経軍の追尾は執拗だった。かくして3月,壇ノ浦に最後の決戦を迎えたが,結局,安徳天皇は入水・死亡,宗盛,建礼門院らは捕らえられ,平氏一門はことごとく滅亡した(壇ノ浦の戦)。
なお,この内乱の起結時期は冒頭に記したごとく理解するのが普通だが,広く保元の乱(1156)から奥州藤原氏の滅亡(1189)までとする立場もある。
執筆者:杉橋 隆夫
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