幸地村
こーちむら
西原間切西部の丘陵にあり、西から宿道が入る。西に耕地が広がる。西は浦添間切前田村(現浦添市)。絵図郷村帳に「かうち村」とみえる。琉球国高究帳では「広地村」とあり翁長村と一括されて高頭四一八石余、うち田三四二石余(うち永代荒地八八石余)・畠七五石余。幸地掟が置かれていた(琉球国由来記)。西原間切番所は当村に設置された(琉球国旧記)。「球陽」尚敬王八年(一七二〇)条によると、番所はこの頃平良村(現那覇市)の津花波親雲上により茅葺から瓦葺に改修された。のち番所は隣接する翁長村に移転している。乾隆四年(一七三九)蔡温は漏刻を改正する命をうけて測定器を造らせた。さらに同五年から一年半にわたって与座良之らに命じ、当村の帽子峰(現在のククジムイ(刻時森)にあたる)で日影の観測を行った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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