幸阿弥長重(読み)こうあみ・ちょうじゅう

朝日日本歴史人物事典 「幸阿弥長重」の解説

幸阿弥長重

没年:慶安4.2.21(1651.4.11)
生年:慶長4(1599)
江戸前期の蒔絵師室町時代以来,幕府お抱えの蒔絵師を勤めた幸阿弥家の7代長晏 の3男に生まれ,名は新次郎。最初養子に出たが,元和4(1618)年に呼び返され,幸阿弥家の10代を継ぎ,以後,多数の蒔絵師を擁する工房の運営に当たった。長重の時代に幸阿弥家が制作にかかわった蒔絵作品は膨大な数にのぼるが,なかでも最も注目されるのは,いわゆる大名婚礼調度であろう。これは,将軍家頂点とする全国諸大名や有力公家などの間で婚儀が行われた際に調えられたもので,内容は化粧道具,文房具,香道具,遊戯具など多岐にわたる。その代表的な例としては,寛永16(1639)年,徳川将軍3代家光の長女千代姫が,尾張徳川家2代の光友に嫁いだ際に調えられた「初音蒔絵婚礼調度」(徳川美術館蔵,重文)をあげることができる。これは,『源氏物語』初音の帖を主題とした光景を金銀高蒔絵を用いて華麗に描いたもので,合計数百件にも達する調度類が長重の工房で3年の歳月を費やして制作された。幸阿弥家では婚礼調度のほかにも,明正天皇即位(1630)の際の調度品をはじめ,諸大名から将軍家への献上品,将軍家からの下賜品など,公的な性格を帯びた作品を数多く造り出しており,江戸の漆芸界では並ぶもののない権威ある存在であった。多くの技術者をかかえた幸阿弥の工房で,手間と費用を惜しまずに熟成された技術が,当時の漆芸界全体におよぼした波及効果はまさに絶大なものがあった。また江戸時代は,光悦・光琳様式,高台寺蒔絵,笠翁細工など,さまざまな蒔絵の様式が並び行われた時代でもあったが,そのなかで室町時代に始まった伝統様式の蒔絵を忠実に継承し続けた幸阿弥家の存在には,重いものがあったといわなくてはならない。<参考文献>『幸阿弥家伝書』,岡田譲「幸阿弥蒔絵」(『東洋漆芸史の研究』)

(小松大秀)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幸阿弥長重」の解説

幸阿弥長重 こうあみ-ちょうじゅう

1599-1651 江戸時代前期の蒔絵(まきえ)師。
慶長4年生まれ。幸阿弥長晏(ちょうあん)の3男。幕府お抱えの幸阿弥家10代。徳川家光の命で明正(めいしょう)天皇即位の調度品,千代姫(家光の娘)婚礼の調度品に蒔絵をほどこした。後者は「源氏物語」から意匠をとったもので,重要文化財に指定されている。慶安4年2月21日死去。53歳。京都出身。通称は与兵衛

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世界大百科事典(旧版)内の幸阿弥長重の言及

【幸阿弥家】より

…室町後期から江戸時代を通じて,時の為政者に仕え,常に主流的な位置にあった蒔絵師の家系。初代道長(1410‐78)は本名土岐四郎左衛門道長といい,近江国栗本郡を領した足利義政の近習であった。のち蒔絵を習って上手になり蒔絵師として将軍家に仕え,入道して幸阿弥と称した。能阿弥,相阿弥,土佐光信の下絵を用い,高蒔絵や研出蒔絵の精巧な作品を制作した。2代道清(1433‐1500)は,道長の長子。1465年(寛正6)に義政の命で後土御門天皇即位の調度に蒔絵を施し,法橋に叙された。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」