日本大百科全書(ニッポニカ) 「幸阿弥家」の意味・わかりやすい解説
幸阿弥家
こうあみけ
蒔絵師(まきえし)の家系。初代道長(みちなが)(1410―1478)は足利(あしかが)将軍義政(よしまさ)の近習(きんじゅう)として仕えていたが、義政の命によって蒔絵の技を習得し、のちその技能を習熟し、義政の芸術家側近である同朋衆(どうぼうしゅう)の一人となり、入道して幸阿弥と称した。それ以来、子孫は代々それを家名とし、蒔絵を家業として継承し、足利将軍家以降、徳川将軍家に至るまで、政権の蒔絵師として仕えた。その業績は「幸阿弥系図」(柴田是真(しばたぜしん)写本、東京芸術大学蔵)によって知られ、天皇即位に使用する調度類をはじめとして、婚礼調度や権力者の霊魂を鎮める廟(びょう)などを飾る蒔絵の施工に従事している。注文の相手は禁裏(きんり)、将軍家をはじめとし、高位の公家(くげ)、有力な武家に限定されていた。したがって、作風は荘重なうちに華麗さを表現し、とくに江戸時代になると、いっそうこの傾向は進展した。いわゆる「大名もの」といった権力者の持ち物を目的とした作品のみが色濃くなり、格式張って類型化し、造形表現に新鮮さがなくなった。その反面、自由で粋(いき)な意匠表現を求めた町人階級の蒔絵師である琳派(りんぱ)、古満(こま)、破笠(はりつ)系などの町蒔絵が台頭し、幸阿弥家の子孫の活躍は沈滞した。
次に、代々の人物から特記すべき事績をあげる。3代宗金の次男の5代宗伯(そうはく)(1484―1557)は、管領(かんれい)細川高国の命により後奈良天皇(ごならてんのう)即位の蒔絵調度を製作した。遺品に桜山鵲蒔絵硯箱(さくらさんじゃくまきえすずりばこ)(重要文化財・武藤家)がある。宗伯の長男、6代長清(ながきよ)(?―1603)は、足利義輝(よしてる)の命で正親町天皇(おおぎまちてんのう)即位の蒔絵調度を製作。秀吉より「天下一」の称号を授かった。長清の長男、7代長晏(ちょうあん)(1569―1610)は、秀吉の命で後陽成天皇(ごようぜいてんのう)即位の蒔絵調度を製作、京都・高台寺の豊臣(とよとみ)夫妻の霊廟(れいびょう)内を蒔絵で加飾したのも彼である。関ヶ原の戦い以後徳川家に仕えた。その弟長玄(1572―1607)は古田織部(ふるたおりべ)の指導で織部棚をつくったことで有名。9代長法(ながのり)(?―1618)は8代長善(ながよし)の弟で、秀忠(ひでただ)の息女東福門院が入内(じゅだい)したときの諸道具類を製作する。10代長重(ながしげ)(1599―1651)は長晏の三男で、家老の命により明正天皇(めいしょうてんのう)即位の蒔絵調度類を製作したほか、家光(いえみつ)の息女千代姫が尾張(おわり)の徳川光友(みつとも)へ嫁入りした際の蒔絵調度類(重要文化財・徳川黎明会)も製作した。意匠は『源氏物語』の初音(はつね)と胡蝶(こちょう)から取材され、前者47点、後者10点に及び、技法は精巧で華美な金銀高蒔絵を駆使し、金銀の彫り金具、珊瑚(さんご)で飾る。ほかに前田光高らの有力大名や近衛尚嗣(このえなおつぐ)らの公家の婚礼蒔絵調度も製作している。11代長房(1628―1682)は長重の長男。家綱の命により後西天皇(ごさいてんのう)や霊元天皇(れいげんてんのう)の即位蒔絵調度をはじめ、宮中、将軍家、諸大名の調度類を多く製作。家綱の霊廟を上野東叡山(とうえいざん)に造営の際に菱田房貞(ひしだふささだ)とともに頭取となって蒔絵を施工し、入道して長安と称した。12代長救(ながやす)(1661―1723)は長房の長男。長好、長道とも称した。綱吉の息女鶴姫(つるひめ)と紀伊綱教(つなのり)との婚姻に際し、香棚、小道具などに蒔絵を施している。1689年(元禄2)日光東照宮造営に古満安明(こまやすあき)とともに蒔絵師の頭取として活躍し、蒔絵史上、技巧的成熟期に達した常憲院(じょうけんいん)時代(徳川綱吉の治世)に君臨した。
[郷家忠臣]