庄島村(読み)しようじまむら

日本歴史地名大系 「庄島村」の解説

庄島村
しようじまむら

[現在地名]久留米市白山町しらやままち縄手町なわてまち

久留米段丘南西部に位置し、北部・西部を池町いけまち川が流れる。北は京隈きようのくま村、南は大隈おおくま村、西は大石おおいし村。久留米城下に接し、東部に久留米藩家老の中屋敷が設けられた。城下荘島しようじま小路(荘島侍小路)に対し、在庄島ざいしようじまと称したという(久留米市誌)。文禄二年(一五九三)三月一八日の高良社神職名知行注文案(歴世古文書)に庄嶋とみえ、座主領一三町があった。本高は三六三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高三五〇石・役高三四九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三六〇石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田九町二反余・開田三反余・畑田七反余・畑二二町七反余・居屋敷四反余。旧高旧領取調帳の高三七七石余。用水は北部の湧水池と池町川によった。明暦元年(一六五五)庄島に扶持人衆が集められ、屋敷ができた(旧家由緒書)。貞享五年(一六八八)庄島新屋敷より原古賀はらこが町へ出る道ができたが、道幅が狭く幅一間半にしたいと願っている(古代日記書抜)


庄島村
しようじまむら

[現在地名]筑後市庄島

富久とみひさ村の東、花宗はなむね川中流右岸に位置する。本高は一五〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二八〇石・役高二六〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高二六〇石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一七町六反余・開田一反余・畑田七反余・畑五町一反余・居屋敷三反余。旧高旧領取調帳では高四七五石余。用水は若菜わかな堰に依存(筑後市史)。慶応四年(一八六八)七月の農兵隊(殉国隊)組立時に羽犬塚はいぬづか村などと一隊を編制して、戦兵三・鳴物方一を出した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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