日本歴史地名大系 「府中本町」の解説 府中本町ふちゆうほんまち 東京都:府中市府中本町[現在地名]府中市本町一―四丁目・宮西町(みやにしちよう)一―五丁目・片町(かたまち)三丁目・分梅町(ぶばいちよう)一―五丁目・南町(みなみちよう)一―三丁目・同六丁目・矢崎町(やざきちよう)一―五丁目・府中町一―三丁目・寿町(ことぶきちよう)一―三丁目・日鋼町(につこうちよう)・東芝町(とうしばちよう)・晴見町(はるみちよう)一―四丁目・幸町(さいわいちよう)一―三丁目・天神町(てんじんちよう)一―四丁目・武蔵台(むさしだい)一―三丁目・新町(しんまち)一―三丁目・緑町(みどりちよう)一―三丁目・浅間町(せんげんちよう)一丁目・栄町(さかえちよう)一―三丁目府中宿を構成する三町の中心。北の番場(ばんば)宿・新(しん)宿二町と異なり、町並は甲州道中沿いにではなく、宿の中央部で同道中に交差する南北の横道(脇往還)に沿って並ぶ。この道は鎌倉街道ともよばれ、「風土記稿」では鎌倉執権時代の奥羽街道としている。また常久(つねひさ)村の南から六所宮(現大国魂神社)の随身門前を過ぎて当宿を通り、西方万願寺(まんがんじ)村(現日野市)へ向かう道は甲州道中の古筋という。元来府中という一つの町であったが、ここから番場宿と新宿が独立、残った部分が府中本町と称されるようになったとされ、街道沿いの宿場集落のほかに、南方の水田地帯の中に矢崎・分梅・芝間(しばま)という三つの農村集落を含包していた。府中三町の家並は分れていたが、街道町並の北側の畑、南方ハケ下の多摩川沖積地にあった水田は混在しており、境界はなかった(風土記稿)。田園簿には府中本町とみえ、田四一五石余・畑一六五石余、幕府領。ほかに野村彦大夫代官所納の野銭永五〇五文、安養(あんよう)寺領一五石・妙光(みようこう)院領一五石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by