八幡宿(読み)やわたしゆく

日本歴史地名大系 「八幡宿」の解説

八幡宿
やわたしゆく

[現在地名]市川市八幡一―三丁目など

近世、八幡村内に置かれた佐倉道(成田道)の宿。日光道中と佐倉道の分岐点となる日光道中千住せんじゆ宿(現東京都足立区)からは二宿目にあたり、新宿にいじゆく(葛西新宿とも、現東京都葛飾区)船橋宿との間を継送った。佐倉道のうち当宿までは日光道中付の道として五街道同様に道中奉行の支配を受けていた。宿の成立年代は明らかではないが、市川渡を通り、当地を経て佐倉方面へ至るルートは近世初頭から江戸房総とを結ぶ道として重視されていたと考えられる。弘化四年(一八四七)の助郷高取調(岩田家文書)によると、下妙典しもみようでん村など七ヵ村が道中奉行高木守久から当宿定助郷を命ぜられたのは寛文七年(一六六七)のことであったといい、また延宝二年(一六七四)には五街道各宿と同様に「佐倉海道」の「八幡 小松川 小岩」の三宿に拝借銭が貸与えられているので(御当家令条)、遅くとも一七世紀の半ばまでには宿としての機能が整えられていたと思われる。


八幡宿
やわたじゆく

[現在地名]浅科村八幡・桑山・蓬田

東方塩名田しおなだ宿へ二七町、西方望月もちづき宿(現望月町望月)へ三二町の中山道の宿で、八幡村・桑山くわやま村・蓬田よもぎだ村の三ヵ村で一宿をなす。慶長初期、中山道宿駅整備にあたり、北方御牧原みまきがはら南麓や矢島やしま村近辺に散在した三ヵ村の民戸六三を街道沿いに移して伝馬屋敷としたと伝え(長野県町村誌)、当初は「荒町あらまち(四鄰譚藪)と称した。

塩名田宿から望月宿に至る間は「中にも御馬寄上より下原辺、百沢前後、春三月氷解、五月六月長雨の節ハ人馬踏沼の如く足立兼、小松枝芒等苅敷ても所により通路成かね、荷物おろし置事度々、寺尾山根に蓬田・桑山村アリ、或ハ矢島村より馬持たるもの出て、右のはね荷をつけ運ひ、三銭四銭取候」(「後見種」丸山憲一氏蔵)と記される強粘土地帯で、一宿を必要とした。


八幡宿
はちまんしゆく

[現在地名]八幡町本町・職人町・鍛冶屋町・肴町・橋本町・新町・中坪・島谷

郡内の主要交通路である郡上街道(下川筋)・越前街道(上之保筋)奥美濃おくみの街道・和良わら街道(和良筋)の合流点に置かれた郡上藩の定めた宿場。寛文一二年(一六七二)藩に差出した書付控(川島文書)によると、この年すでに郡上街道沿いの大矢おおや(現美並村)問屋が、苅安かりやす(現同上)本陣が置かれており、少なくとも遠藤常友の代の寛文期には八幡宿も置かれていたとみられる。


八幡宿
はちまんしゆく

[現在地名]府中市宮町みやまち一―二丁目・八幡町一―三丁目・緑町みどりちよう一―三丁目・清水が丘しみずがおか一―三丁目・日吉町ひよしちよう浅間町せんげんちよう一―四丁目

府中新宿の東にあり、東と南は是政これまさ村。人家は主として甲州道中に沿って東西に並ぶが、西端の京所きようず地区では甲州道中の南裏の京所道に沿って集落が形成されていた。八幡宿の名は中央南寄りに鎮座する国府こくふ八幡宮に由来する。天正一九年(一五九一)一一月、徳川家康から六所宮(現大国魂神社)の社領として寄進された府中内五〇〇石の地に相当し(「六所宮社領寄進状」大国魂神社誌)、以後明治四年(一八七一)まで六所宮領であった。


八幡宿
はちまんしゆく

[現在地名]八王子市八幡町

八日市ようかいち宿の西にあり、西側は八木やぎ宿と接する。八王子横山十五はちおうじよこやまじゆうご宿のうちで、横山・八日市両宿の加宿。宿内の中央を東西に甲州道中が通る。宿内には関東十八代官の今井九右衛門・中川八郎左衛門・平岡次郎右衛門らの屋敷跡があった(風土記稿)。元禄一五年(一七〇二)の八王子横山宿村鑑(新野家文書)によれば、高八六石余、家数七六のうち本百姓六一・水呑一五、人数五〇七、馬一一、諸色商売人(小間物商・穀物商・菓子商・太物商・菜種商・塩肴商・饂飩商など)三三、医者・大工・塗物師各三、宮造二、金物細工・畳指・屋根屋・仕立屋・紺屋・造酒屋各一、千人同心一六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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