庭坂村(読み)にわさかむら

日本歴史地名大系 「庭坂村」の解説

庭坂村
にわさかむら

[現在地名]福島市町庭坂まちにわさか

まつ川右岸に位置し、北から西は李平すももだいら村、西は在庭坂ざいにわさか村、南は二子塚ふたごづか村・上野寺かみのでら村、東は笹木野ささきの村。西部は吾妻連峰にかかり、家形いえがた(一八七七メートル)一切経いつさいきよう(一九四八・八メートル)などをもって出羽国および会津地方と接する。大部分山地で、標高七五〇メートル付近に高湯たかゆ温泉がある。耕地の多くは松川天戸あまと川が形成した緩斜面に分布し、集落は板谷いたや峠越の米沢街道に沿って庭坂宿の街村を形成するほか、散村状を呈する。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉しのぶなぐら方のうちとして「にハさか」とみえ、段銭は一〇貫四〇〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録では、半沢杢助が信夫庄庭坂のうちの遠藤監物分きりハらし(切枯)在家などを与えられ、また大枝左衛門頭は庭坂郷の諸役直納権を認められている。天正期(一五七三―九二)に入ると、伊達輝宗・政宗父子と南奥の諸大名との対立が激化し、板谷峠越の道が重視され、峠集落として庭坂宿が整備されたのもこの頃とみられる。同一六年五月一四日、米沢城を出た伊達政宗は途中「にわさか麓」で、信夫郡内の家臣に迎えられている(伊達天正日記)

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千二六九石。近世初期の邑鑑によると高一千二七〇石、免一ツ八分、家数一四(役家九・肝煎一・脇家四)、人数四二、役木として桑・楮各少しがある。米沢藩領時代の古高二千九〇一石余、幕府検地による新高二千七三石余(古高新高帳)。元禄一三年(一七〇〇)幕府領、宝暦五年(一七五五)会津藩預地、同一三年幕府直轄領に復し幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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