延沢村(読み)のべさわむら

日本歴史地名大系 「延沢村」の解説

延沢村
のべさわむら

[現在地名]尾花沢市延沢

尾花沢盆地南東部、朧気おぼろけ川上流部に位置し、東は山を隔てて六沢ろくさわ村。軽井沢かるいざわ越仙台道の宿で、羽州街道(背中炙峠越)が分岐する。戦国時代当地方を領した野辺沢氏の居城の城下集落として発達した村で、当地方の中心的存在。延沢は戦国時代には野辺沢と書き、天正一三年(一五八五)と推定される六月一七日の年紀を有する六沢円照えんしよう寺観音堂の木製狛犬銘に「野辺沢(カ)金」とある。延沢村史料(北村山郡史)によれば、応永二年(一三九五)日野大学頭昭光が有路・高橋などの家臣を伴って当地に来て、野辺沢氏を称したという。慶長二年(一五九七)一〇月吉日の治部少輔旦那注文写(米良文書)に「出羽国(中略)のべさわ」とあり、当時当地方の熊野参詣の旦那職を「五右衛門はは」が有していた。

元和八年(一六二二)山形藩領となり、寛永二〇年(一六四三)以降は幕府領


延沢村
のぶさわむら

[現在地名]開成町延沢

東は吉田島よしだじま村、北は金井島かないしま村、南は円通寺えんつうじ村、西は千津島せんどしま(現南足柄市)と接し、武永田ぶえいだ堰が北東から注ぐ。小田原衆所領役帳に板部岡右衛門「百五拾七貫五百五拾七文 西郡延沢」と載せ、「此内四十八貫五百文甲辰(天文一三年)川成永不作」と注記される。元亀元年(一五七〇)一二月晦日の武田家朱印状写(県史三)では、勝山新平に「最前ニ降参」の賞として「延沢郷」を宛行っているが、実態は疑わしい。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(同書)に「のふさわ」と記す。

近世は小田原藩領。宝永四年(一七〇七)の富士山噴火被害とその後の酒匂さかわ川の洪水被害は近隣諸村と同様であり、合同して度々江戸出訴を繰返している(享保七年「諸覚帳」瀬戸文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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