酒田湊(読み)さかたみなと

日本歴史地名大系 「酒田湊」の解説

酒田湊
さかたみなと

最上川の河口に開けた湊で、「羽州第一の津湊、(中略)九州・中国および九州・大坂より廻船交易のために此浦に泊して、国中の産物を積事なり」(古河古松軒「東遊雑記」)と評された。中世には最上川左岸、田川郡の飯森いいもり山付近のそでうら辺りであったと考えられるが、戦国時代にはしだいに対岸飽海あくみ郡に移転した。左岸の旧地を向酒田むこうさかた、右岸を当酒田とうさかたとよぶ。「義経記」巻七に「酒田の湊は此少人の父、坂田次郎殿の領なり」とみえる。幸若舞曲の「笈さかし」に「六(挺)ぶねのせんどう、七月のはじめ、あひた、さかたをこぎいだし、八月のはじめ、越前の国とかや、つるがの津にきこえたる」、「やしま」の中に「あいた・さかた・つがる・がつふそとの浦」とある。坂田次郎なる人物が実在したか否かは不明であるが、鎌倉時代末期には出羽秋田・陸奥津軽・越前敦賀つるがから上方までを交易範囲とする湊として機能していたことがうかがえる。三十六人御用帳(本間文書)の酒田創設伝説によると、奥州藤原秀衡の妹徳前が遺臣三六騎とともに諸所を漂泊したのち袖の浦に居住し、のち三六人は地侍となって自らを三十六人衆と称し、長人おとなとして船問屋を家業としたという。三十六人衆は平田船を建造し、袖の浦は最上川流域と松前・上方の商品を交易する湊として機能していたと伝える(「庄内酒田並所々縁起」飽海郡誌)。問屋の出自も伝説の平泉武士に限らず、諸国の武士や商人が土着したといわれる。

康正元年(一四五五)の玉漱軒記写(種月寺文書)に「逆沱浦、舟船都会之津也」とあり、湊には十州三島の珍貨が集まったとその繁盛ぶりを記す。酒田山王宮附修験旧記(飽海郡誌)には、明応年中(一四九二―一五〇一)向酒田の戸数一千軒余、当酒田は一四〇―一五〇軒余とみえ、向酒田の繁栄ぶりを伝える。当酒田にある寺で草創の場所を向酒田とする寺も多い。海晏かいあん寺は応永二三年(一四一六)浄福じようふく寺は文明五年(一四七三)袖の浦で創建され、林昌りんしよう寺は鐘の銘文から永禄三年(一五六〇)頃には向酒田にあったことが知られる。天正てんしよう寺・竜厳りゆうごん寺・泉流せんりゆう寺・浄徳じようとく寺・大信だいしん寺も向酒田にあったと伝える(「錯薪編」飽海郡誌など)。袖の浦は、日本海航路を通じて京都と最上川の流域を中心とする内陸とを結ぶ湊として発展した。飯森山下にあった湊は、大永年間(一五二一―二八)頃には最上川の流路と水深の変化で荒廃し、町の盛衰浮沈の瀬戸ぎわに追込まれたため、慶長年間(一五九六―一六一五)頃にかけて対岸の大町おおまち付近に移転した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の酒田湊の言及

【酒田[市]】より

…酒田港北西約39kmの日本海に浮かぶ飛島は酒田市に属し,天然記念物指定のウミネコ繁殖地として知られる。【中川 重】
[酒田湊]
 最上川河口にあり,坂田,砂潟ともかいたが,これらの地名は室町期からみえる。酒田湊はもと川南の袖ノ浦(現,宮野浦)にあったが,永正年間(1504‐21)から慶長年間(1596‐1615)に最上川の北岸に移転している。…

※「酒田湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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