日本大百科全書(ニッポニカ) 「張遼」の意味・わかりやすい解説
張遼
ちょうりょう
(165―221)
中国、三国魏(ぎ)の武将。字(あざな)は文遠(ぶんえん)。雁門(がんもん)郡馬邑(ばゆう)県(山西省朔州(さくしゅう)市)の人。丁原(ていげん)、董卓(とうたく)、呂布(りょふ)と主君を転々とかえたが、下邳(かひ)の戦いで曹操(そうそう)に降服する。官渡(かんと)の戦いののちには、袁譚(えんたん)、袁尚(えんしょう)の討伐に従軍し、別動隊を指揮して海岸地帯を進撃、遼東(りょうとう)の柳毅(りゅうき)などを打ち破った。勇猛でありながら沈着冷静で、反乱を企てた者が、夜中に火を放った際にも、落ち着いて騒ぎを鎮め、首謀者を斬(き)った。魏呉(ご)激戦の地である合肥(ごうひ)をよく守り、215年、曹操の漢中出征のすきを突いて、10万の兵を率いた孫権(そんけん)が押し寄せると、わずか800の兵で孫権を奇襲して窮地に陥れた。その後、合肥城の守備を固めると、10日間余り取り囲んでも、孫権は合肥を陥落させることができなかった。孫権があきらめて退却すると、張遼は逍遥津(しょうようしん)にまたしても孫権を急襲する。淩統(りょうとう)のはたらきによって、孫権はようやく逃れることができたが、孫権は張遼を恐れ、諸将に「張遼とは戦うな」と念を押した。『三国志演義』では、呉では張遼の名を聞くと、おびえて子供の夜泣きが治まったとする。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」武将34選』(PHP文庫)』