精選版 日本国語大辞典 「呉」の意味・読み・例文・類語
く・れる【呉】
くれ【呉】
ご【呉】
くれ【呉】
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広島県中南部にある市。旧呉市が2003年4月下蒲刈(しもかまがり)町を,04年4月川尻(かわじり)町を,05年3月音戸(おんど),蒲刈,倉橋(くらはし),豊浜(とよはま),安浦(やすうら),豊(ゆたか)の6町をそれぞれ編入して成立した。人口23万9973(2010)。
呉市南西部の旧町。旧安芸郡所属。倉橋島北部を占める。人口1万5084(2000)。本土の旧呉市とは急潮で知られる音戸ノ瀬戸によって隔てられていたが,1961年音戸大橋が完成して陸続きとなり,西の能美島とは早瀬大橋(1973完成)によって結ばれている。本土の警固屋(けごや)(旧呉市)と相対する中心市街の音戸は,かつては御塔(おんとう),穏渡ともいい,瀬戸内海の要港であった。農業はミカン栽培,漁業はカキの養殖が中心。工業では古くから漁網製造が行われている。音戸大橋が架橋されたことにより,旧呉市や広島市への通勤が可能となった。御塔という地名の由来である平清盛の供養塔といわれる清盛塚がある。
執筆者:赤池 享一
呉市南東部の旧町。旧安芸郡所属。人口2741(2000)。芸予諸島の上蒲刈島(19.08km2)全域を占め,西は三之瀬瀬戸を隔てて,下蒲刈島に臨む。両島の間に1979年完成の蒲刈大橋が架かる。中心集落は北岸の宮盛(みやざかり)で,旧豊浜町に航路が通じ,呉への通勤者が多い。七国見山などの山地が海に迫り,平地が少なく,山の斜面を利用したミカン栽培が産業の中心である。イワシ,エビ,タイなどの沿岸漁業が盛んで,養殖も行われる。明治初期から島の特産として生石灰を産出していた。海水浴客や釣客も多い。
呉市中部の旧町。旧豊田郡所属。人口1万0380(2000)。旧呉市の東に接し,南は瀬戸内海に臨む。野呂山の南斜面にあって山林が大部分を占め,耕地が少ない。安芸郡熊野町とともに毛筆製造が盛んで,高級筆として全国に出荷されている。川尻筆は江戸末期に出雲松江の筆の産地から職人を雇い入れて発展したといわれ,近年は毛筆のほかに画筆,はけも生産している。また海岸の埋立地には造船,といしなどの工場が立地する。さざなみスカイラインが山頂まで通じる野呂山は瀬戸内海の展望地として知られる。海岸沿いにJR呉線,国道185号線が通じ,旧呉市のベッドタウンになっている。
執筆者:清水 康厚
呉市南西端の旧町。旧安芸郡所属。倉橋島南半分と,南方の鹿島(有人島),および九つの無人島からなる。人口7593(2000)。花コウ岩質の山地が起伏し,湾曲する海岸線のわずかな平地に集落が散在する。古くから瀬戸内海航路の要地で,江戸末期までは造船の町として栄えた。急傾斜地を階段状に切り開いた棚田や畑は,近年ミカン畑への転換が進み,県内有数のミカン産地となっている。漁業は養殖漁業,観光漁業に移行しており,カキ養殖,タイ釣りなどが中心である。石材工業も盛んである。桂ヶ浜にある桂浜神社本殿は重要文化財。火山(ひのやま)や海岸線一帯は瀬戸内海国立公園に指定されている。
執筆者:赤池 享一
呉市中西部の旧市で,広島湾岸工業地域の一翼をになう重工業都市。1902年市制。人口20万3159(2000)。明治初年まで呉湾に臨む半農半漁の村であったが,1886年第2海軍区軍港の指定を受け,89年呉鎮守府の開庁,1903年呉海軍工厰(こうしよう)の設置などにより軍港,工厰の町として発展し,第2次大戦まで海軍と盛衰をともにしてきた。その間,市域の拡張を進め,人口も最高時に40万人をこえたが,終戦直後に15万人程度に減少した。その後48年貿易港に指定され,50年の〈旧軍港市転換法〉によって石川島播磨重工業,神戸製鋼に加えて日新製鋼,淀川製鋼などの進出をみた。旧軍の施設,技術の転用によって造船,鉄鋼,金属,機械などの重化学工業を発展させ,市の製造品出荷額の90%を占めるに至った。しかし,第1次石油ショック以降,構造不況の波を受け市の経済は沈滞しがちである。特産品として仁方(にがた)のやすり,呉の清酒,万年筆,吉浦のといしなどがある。港湾施設は海上自衛隊呉地方総監部と区分使用し,四国および内海島嶼(とうしよ)部を結ぶ航路のターミナルとなっている。平地が少なく住宅が戦前より背後の山地まではい上がっているため,1945年および65年に甚大な土石流災害を受けた。近年は内陸盆地に大規模住宅団地が造成されている。海上保安大学校,呉工業高等専門学校があり,JR呉線,国道185号線が通じる。
執筆者:藤原 健蔵
呉市中部の旧町。旧安芸郡所属。1962年町制。人口2223(2000)。旧呉市仁方の沖合にある下蒲刈島を中心に,上黒島,下黒島を町域に含む。下蒲刈島の北東部にある中心集落の三之瀬は中世以来瀬戸内海航路の要地で,江戸時代は広島藩内唯一の海駅に指定され,本陣,番所が置かれた。また将軍交代のたびに朝鮮国王から派遣される朝鮮信使の宿館も整えられた。現在の主産業はミカン栽培で,山頂近くまでミカン畑が広がる。島の大部分は花コウ岩からなるが,北部は石灰岩地帯で,見戸代の白崎で採掘していた。旧呉市の仁方とフェリーで結ばれていたが,2000年に旧川尻町との間に有料の安芸灘大橋が完成。旧呉市への通勤者も多い。東の上蒲刈島との間の三之瀬瀬戸には,1979年蒲刈大橋が完成した。
呉市東部の旧町。旧豊田郡所属。1969年町制。人口2175(2000)。町域は安芸灘に浮かぶ豊島,大崎下島西部,三角(みかど)島西部,斎(いつき)島,尾久比(おくび)島からなる。豊島東部の小野浦が中心集落で,古くから漁港として発展し,タイの一本釣り,はえなわ漁業が盛んである。平地が乏しく,島の傾斜地ではミカンの栽培が行われている。豊島と大崎下島は豊浜大橋で結ばれている。豊島の南にあるアビ渡来群遊海面は国の天然記念物に指定されている。
呉市北東部の旧町。旧豊田郡所属。人口1万2913(2000)。瀬戸内海に面し,西は旧呉市と接する。大部分は山地で,中畑川,野呂川,中切川が安浦湾(三津口湾)頭で合流し,河口部に低地を形成する。町域海上には柏島,小熊島,馬島,横島が浮かび,瀬戸内海国立公園に含まれている。中心地の内海(うちのうみ)はJR呉線,国道185号線が通じ,中畑川沿いに東広島市へ通じる県道を分岐する。江戸時代から新田や塩田の開発が行われてきたが,1944年には塩田跡地が海軍の用地とされ,安浦海兵団が設置されていた。安浦湾奥の三津口は江戸時代からの漁港。米作のほかタバコ,ミカン,花卉,シイタケなどの栽培が行われ,安浦湾ではカキの養殖が盛ん。西方野呂山を中心とする一帯は瀬戸内海国立公園の一部で,野呂山の東の峰にあたる弘法寺山(789m)にある弘法寺は,桜の名所である。
執筆者:清水 康厚
呉市東端の旧町。旧豊田郡所属。竹原市の南方海上にある大崎下島の東側過半部と三角島の大部分,鍋島,平羅(へいら)島,大島,小島からなる。人口2956(2000)。大崎下島は一峰寺(いつぽうじ)山(449m)を最高峰とする急峻な地形で平地は少なく,集落は海岸部に密集している。古くは伊予国に属したが,室町時代に小早川氏の支配下に入り,近世初期には安芸国に属した。1422年(応永29)の《小早川文書》には〈大条浦〉(現,大長(おおちよう)),〈興友浦〉(現,沖友)など町内の地名がみえる。南東端の御手洗(みたらい)は,近世には廻船などの寄航地としてにぎわい,町場が形成された。参勤交代の際に寄港する西国諸藩の大名も多く,その船宿や,遊女を抱えた茶屋もあった。茶屋のうち若胡子(わかえびす)屋の主屋は現存し,当時のおもかげが残る。〈大長ミカン〉として知られたミカン栽培が中心で,耕地のほとんどが果樹園地だが,町外への出作りも行われ,農用船で周辺の島々へ耕作に出向く。旧町域の一部は瀬戸内海国立公園に含まれる。中心は大長で,海上交通の基地ともなっている。
執筆者:赤池 享一
古代日本において中国の長江(揚子江)下流地域をさす名称。拡大して中国全体をさすこともある。《新撰姓氏録》では呉は諸蕃(しよばん)の漢・百済・高麗・新羅・任那のうちの〈漢〉に属し,春秋時代の呉(ご),三国時代の呉,南北朝時代の梁(りよう)がそれぞれ〈呉〉と記されている。《日本書紀》には応神天皇から斉明天皇の条にかけて呉(くれ)の名がみえるが,そのさす内容は必ずしも一定しない。大部分は長江下流地域(南北朝時代でいえば南朝の地)をさすが,遣唐使の吉士長丹(きしのながに)がその功によって〈呉氏〉という姓を授けられたり,遣唐使の航路が〈呉唐(くれもろこし)の路〉と記されているのは,呉(くれ)の名で中国全体をさすこともあった証拠である。日本が中国を呉(くれ)と呼んだのは,たまたま日本が交渉した中国王朝がかつての呉(ご)の地を拠点とした王朝であったことによるものであろう。《漢書》地理志によると呉は〈句呉(くご)〉と呼ばれており,〈くれ〉はその転語であろうか。なお,高句麗(こうくり)を〈句驪(くり)〉と記すこともあるので,呉(くれ)を高句麗とみる見方もある。しかし,《日本書紀》には呉(くれ)に渡るのに高句麗に道案内を頼んだり,高句麗と呉(くれ)の使者が同時に日本にきた記事があるので,呉(くれ)が高句麗であるという説には問題が残る。《日本書紀》の伝える日本と中国南朝(呉(くれ))との交渉は,《宋書》倭国伝などの伝える内容とは著しく違っているが,そこに日本の対中交渉の残像がうかがえることはほぼ誤りあるまい。
→倭の五王
執筆者:坂元 義種
中国の三国時代に魏・蜀と鼎立し,ついで晋と対峙して長江(揚子江)中下流域から華南を支配した国。222-280年。呉郡富春(浙江省富陽県)出身の孫堅が後漢末の群雄の一人として活躍したのち,子の孫策が長江下流域を制したが若死する。その地盤をついだ弟の孫権は劉備と同盟して208年(建安13),南下する曹操の軍を赤壁に破り,さらに219年,劉備に勝って長江中流域以南を領有した。魏と蜀があいついで帝号を称したのに対抗して,222年(黄武1),孫権は呉王として独立したのち,229年(黄竜1)に帝位について首都を建業(南京)に定めた。当時の江南(長江下流域の南側)には山越など原住民族の力が強かったが,呉はこれらを征服して積極的に開発を進めた。その版図は華南から北ベトナム,台湾に及んだが,252年,大帝孫権が死ぬと,後をついだ諸帝に権威がなく,孫権の孫の孫皓(そんこう)は権威確立をあせって暴虐を極めたため,内部崩壊が進んで280年,晋軍に滅ぼされた。
→三国時代
執筆者:川勝 義雄
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①〔春秋〕?~前473 周の太王の子の太伯(たいはく)・仲雍(ちゅうよう)の兄弟が弟の季歴(きれき)(文王の父)に王位を譲り,文身(刺青(いれずみ))断髪して荊蛮(けいばん)の地に建てた国。都は無錫(むしゃく)に置かれ,のちに蘇州に移った。『史記』呉太伯世家や『呉越春秋』に詳しい。虞仲(ぐちゅう)のときに諸侯となり,寿夢(じゅむ)が初めて王となった。その子の季礼(きれい)は王位を受けずに賢者として知られた。闔閭(こうりょ)と夫差(ふさ)の2代は越(えつ)と戦い,前473年越王勾践(こうせん)に滅ぼされた。
②〔三国〕222~280 中国の三国時代の王朝。後漢末に江南の土豪孫堅(そんけん)が台頭し,その戦死後子の孫策が江南を平定したが,暗殺されたので弟の孫権(大帝)が継ぎ,赤壁の戦いで曹操(そうそう)を破って地位を確保した。のち蜀(しょく)と争って魏と結び,曹丕(そうひ)が帝位につくと呉王に封じられたが(220年),222年独立し,229年帝位につき建業(南京)を都とした。孫権の死後権力は江南の豪族に移って混乱が起こり,280年晋に討たれ4代で滅んだ。呉は江南の開発を進め,領土をベトナム北部まで広げ,林邑(りんゆう),扶南(ふなん)などを朝貢させた。
③〔五代十国〕902~937 五代十国の一つ。揚州を中心に淮南(わいなん),江北と江南の一部に拠った地方政権。902年に淮南節度使の楊行密(ようこうみつ)が呉王に封じられて建国。4代続き,937年に徐知誥(じょちこう)(南唐の烈祖)に滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
中国の三国時代の王朝(222~280)。後漢の末,孫堅(そんけん)が黄巾(こうきん)の乱の平定に功をあげ,江南に勢力圏を築いた。その子孫権(そんけん)は劉備(りゅうび)と結んで曹操(そうそう)を赤壁(せきへき)に破り,中国を三分。魏(ぎ)の曹丕(そうひ),蜀(しょく)の劉備に続いて孫権も黄武と年号をたて,建業(現,南京)を都に建国。江南の農業開発を進めたが,孫権の死後,内乱がおこり,孫皓(そんこう)が晋に降って滅亡。日本では,赤烏(せきう)(238~251)の紀年をもつ青銅鏡が出土し,「日本書紀」は呉の紡績技術者の渡来を記録する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
…中国で,907年(天祐4)に唐が滅び,960年(建隆1)に宋が成立して979年(太平興国4)に統一を完了するまでの時期を,五代十国時代という。この間,華北では後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したので五代といい,その他の地域に前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越,閩(びん),荆南(南平),楚,南漢,北漢などが併存したので十国という。唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。…
※「呉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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