く・れる【呉】
〘他ラ下一〙 く・る 〘他ラ下二〙
[一] 人に物を与える。やる。
① ある人が、話者または話者側の者に、物を与える。
※
書紀(720)神代上(水戸本訓)「汝が持
(も)たる八坂瓊の曲玉を予に授
(クレ)よ」
② 一般に、人または
動植物に物を与える。受け手の身分や
地位が与え手より低い場合、または、話者が受け手を
軽蔑(けいべつ)している場合に用いることが多い。
※土左(935頃)承平五年一月七日「この
長櫃(ながひつ)のものは、みな人、
わらはまでにくれたれば」
※帽子(1906)〈
国木田独歩〉「そんな帽子お前に呉
(ク)れてやる」
③ 緊張を解く。余裕を与える。ゆるめる。
※
平家(13C前)四「馬の足のおよばうほどは、
手綱をくれてあゆませよ」
④ 染めつける。
[二]
補助動詞として用いる。多く動詞の連用形に
接続助詞「て」を添えた形に付く。
① 話者または話者側の者に対してなされた
他者の行為の下に付けて、その行為が好意的になされたり、こちらに利益や
恩恵をもたらしたりするものであることを表わす。感謝や
懇願の意を含むことが多い。
※
太平記(14C後)一八「如何にもして
杣山(そまやま)の城へ入進
(いれまゐら)せてくれよ」
※
夢酔独言(1843)「龍太夫と云おしの処へいって、〈略〉かくのしだい故留めてくれろといふがいい」
② 話者または話者側の者に及んだ他者の行為の下に付けて、その行為が非好意的になされたり、こちらに不利益や損害をもたらしたりするものであることを表わす。
※人情本・仮名文章娘節用(1831‐34)三「こんなにわづらってくれちゃア、実にどうも困りきるぜ」
③ 話者が他人に対してする行為の下に付けて、その行為が非好意的になされたり、相手に不利益や損害をもたらしたりするものであることを表わす。相手への
敵意や、あなどり、あてつけの
気持を伴う。やる。
※虎明本狂言・
髭櫓(室町末‐近世初)「
ひげをむしりてくれんとてきっさきをそろへてかかりけり」
[
補注]現代の共通語では他者が話者に物を与えることを表わすが、古くは話者が他者や動植物に対して物を与える意をも表わした。話者が他者に物を与える場合、現代の共通語では「やる」を用いることが多いが、
方言では「くれる」で表わす地方も少なくない。
くれ【呉】
※書紀(720)応神三七年二月(北野本南北朝期訓)「
阿知使主(あちのをむ)・
都加使主(とかのおむ)を呉
(クレ)に遣
(また)す、命
(みことのり)して縫工女
(きぬぬひめ)を求
(ま)く」
[2] 〘
語素〙 呉の国、また広く中国から伝来したもの、伝来したと伝えられるものに冠していう語。「
呉織(くれはとり)」「呉竹
(くれたけ)」など。
ご【呉】
中国の王朝名。
[一] 春秋時代、揚子江下流にあった国。都は呉(蘇州)。紀元前六世紀頃から強盛となり、楚、越と抗争し、一時中原に覇を争ったが、紀元前四七三年越に滅ぼされた。
[二] 後漢末、三国の一つ。二二二年孫権が江南に建国。都は建業(南京)。魏、蜀と天下を三分したが、二八〇年晉に滅ぼされた。
[三] 五代十国の一つ。九〇二年、楊行密が淮南、江東に建国。都は揚州。九三七年南唐に滅ぼされた。
くさ・る【呉】
〘他ラ四〙 「呉れる」の尊敬語。くださる。上方の語。
※浄瑠璃・蘆屋道満大内鑑(1734)四「定(さだめ)ておりためがあらふ。売(うっ)てほしやと思ふからなんとうってくさりませぬかい」
くれ【呉】
広島県南部の地名。広島湾に面し、旧海軍の軍港として知られた。第二次世界大戦後は、工業・港湾都市として発展。明治三五年(一九〇二)市制。
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デジタル大辞泉
「呉」の意味・読み・例文・類語
くれ【呉】
1 中国春秋時代の呉の国。転じて、中国のこと。
2 広く、中国から伝来した事物に冠していう語。他の名詞の上に付いて複合語をつくる。「呉竹」「呉楽」
くれ【呉】[地名]
広島県南西部の市。もと軍港で、海軍鎮守府があった。造船業・重工業が盛ん。人口24.0万(2010)。
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呉【ご】
(1)中国,周代の侯国。姫姓。春秋時代の末(前6世紀末),闔閭(こうりょ)・夫差(ふさ)の2代,長江の下流域を本拠として勢力を拡大,中原にも進出したが,前473年越王句践(こうせん)に敗れ,併合された。→春秋戦国時代(2)中国,三国の一つ。222年―280年存続。魏・蜀と鼎立した。父孫堅,兄孫策を継いだ孫権は劉備と結んで曹操の軍を赤壁に破り(220年),222年江南に建国,建業(現,南京)に都した。江南の開発を進め,北部ベトナムまで領域を広げたが,孫権の死後は国勢振るわず,晋に滅ぼされた。→三国時代(3)中国,五代十国の一つ。902年―937年存続。別名は淮南(わいなん)国。淮南節度使として揚州に拠った楊行密が,唐朝から902年呉王に封ぜられて建国。その死後は軍権を握った権臣の徐氏が国政を左右し,4代にして徐氏の南唐(唐)にとって代わられた。
→関連項目越|魏晋南北朝時代|蘇州|孫子|太宗(宋)|覇者|扶南|六朝文化
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呉(ご)
Wu
①〔春秋〕?~前473 周の太王の子の太伯(たいはく)・仲雍(ちゅうよう)の兄弟が弟の季歴(きれき)(文王の父)に王位を譲り,文身(刺青(いれずみ))断髪して荊蛮(けいばん)の地に建てた国。都は無錫(むしゃく)に置かれ,のちに蘇州に移った。『史記』呉太伯世家や『呉越春秋』に詳しい。虞仲(ぐちゅう)のときに諸侯となり,寿夢(じゅむ)が初めて王となった。その子の季礼(きれい)は王位を受けずに賢者として知られた。闔閭(こうりょ)と夫差(ふさ)の2代は越(えつ)と戦い,前473年越王勾践(こうせん)に滅ぼされた。
②〔三国〕222~280 中国の三国時代の王朝。後漢末に江南の土豪孫堅(そんけん)が台頭し,その戦死後子の孫策が江南を平定したが,暗殺されたので弟の孫権(大帝)が継ぎ,赤壁の戦いで曹操(そうそう)を破って地位を確保した。のち蜀(しょく)と争って魏と結び,曹丕(そうひ)が帝位につくと呉王に封じられたが(220年),222年独立し,229年帝位につき建業(南京)を都とした。孫権の死後権力は江南の豪族に移って混乱が起こり,280年晋に討たれ4代で滅んだ。呉は江南の開発を進め,領土をベトナム北部まで広げ,林邑(りんゆう),扶南(ふなん)などを朝貢させた。
③〔五代十国〕902~937 五代十国の一つ。揚州を中心に淮南(わいなん),江北と江南の一部に拠った地方政権。902年に淮南節度使の楊行密(ようこうみつ)が呉王に封じられて建国。4代続き,937年に徐知誥(じょちこう)(南唐の烈祖)に滅ぼされた。
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ご【呉 Wú】
中国の三国時代に魏・蜀と鼎立し,ついで晋と対峙して長江(揚子江)中下流域から華南を支配した国。222‐280年。呉郡富春(浙江省富陽県)出身の孫堅が後漢末の群雄の一人として活躍したのち,子の孫策が長江下流域を制したが若死する。その地盤をついだ弟の孫権は劉備と同盟して208年(建安13),南下する曹操の軍を赤壁に破り,さらに219年,劉備に勝って長江中流域以南を領有した。魏と蜀があいついで帝号を称したのに対抗して,222年(黄武1),孫権は呉王として独立したのち,229年(黄竜1)に帝位について首都を建業(南京)に定めた。
ご【呉 Wú】
中国,春秋時代の侯国。?‐前473年。句(こう)呉,攻呉とも書かれる。周太王の子の太伯と仲雍が,弟の王季に位を譲り,江南に行き,文身・断髪して蛮族の君となって建てた国という。春秋後期になって史上に活躍し,江蘇省蘇州に都をおき,一時は楚の都の郢(えい)(湖北江陵県)を攻めおとし,王夫差のとき南の越を屈服させ,北上して晋と覇を争うなどしたが,そのすきに越に攻められ,前473年夫差は越王句践に包囲され,自殺し,呉は滅んだ。
くれ【呉】
古代日本において中国の長江(揚子江)下流地域をさす名称。拡大して中国全体をさすこともある。《新撰姓氏録》では呉は諸蕃(しよばん)の漢・百済・高麗・新羅・任那のうちの〈漢〉に属し,春秋時代の呉(ご),三国時代の呉,南北朝時代の梁(りよう)がそれぞれ〈呉〉と記されている。《日本書紀》には応神天皇から斉明天皇の条にかけて呉(くれ)の名がみえるが,そのさす内容は必ずしも一定しない。大部分は長江下流地域(南北朝時代でいえば南朝の地)をさすが,遣唐使の吉士長丹(きしのながに)がその功によって〈呉氏〉という姓を授けられたり,遣唐使の航路が〈呉唐(くれもろこし)の路〉と記されているのは,呉(くれ)の名で中国全体をさすこともあった証拠である。
ご【呉 Wú】
中国,五代十国の一つ。902‐937年。淮南(わいなん)ともいう。唐末の群雄より身をおこした淮南節度使楊行密が建てた国。揚州を拠点に安徽,湖北,江西にまで支配を及ぼした。軍閥割拠の弊を改め中央軍(牙軍)を強化したが,牙軍を掌握する徐温らに実権が移り,2代目以後は完全に徐氏が国政を牛耳り楊氏はその傀儡(かいらい)と化した。919年(武義1),呉国王と称し,927年(乾貞1)にはさらにすすんで皇帝号を称した。
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呉
ご
①周代に長江下流(現在の蘇州)にあった国
②三国時代の一国 222〜280
③五代十国の一国 902〜937
春秋時代末期に五覇の1つとして強大となったが,南方の越としばしば争い,夫差のとき,越王勾践 (こうせん) に滅ぼされた(前473)。
後漢 (ごかん) 末期の豪族孫権が蜀 (しよく) と結んで魏の曹操の大軍を赤壁 (せきへき) の戦いで破り(208),地位を確立。建業(現在の南京)を都として建国。基盤とした江南の開発につとめ,六朝の最初に数えられる。晋に滅ぼされた。
節度使楊行密が揚州を中心に建国した。後梁 (こうりよう) の朱全忠と戦う。4代で南唐に国を奪われた。
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呉
ご
中国の三国時代の王朝(222~280)。後漢の末,孫堅(そんけん)が黄巾(こうきん)の乱の平定に功をあげ,江南に勢力圏を築いた。その子孫権(そんけん)は劉備(りゅうび)と結んで曹操(そうそう)を赤壁(せきへき)に破り,中国を三分。魏(ぎ)の曹丕(そうひ),蜀(しょく)の劉備に続いて孫権も黄武と年号をたて,建業(現,南京)を都に建国。江南の農業開発を進めたが,孫権の死後,内乱がおこり,孫皓(そんこう)が晋に降って滅亡。日本では,赤烏(せきう)(238~251)の紀年をもつ青銅鏡が出土し,「日本書紀」は呉の紡績技術者の渡来を記録する。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典内の呉の言及
【魏晋南北朝時代】より
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
【三国時代】より
…3世紀の中国で魏,呉,蜀(漢)の3国が鼎立していた時代をいう。統一帝国として400年の命脈を保った漢王朝の瓦解によって生まれた政局で,魏晋南北朝の分裂時代がここに始まる。…
【五代十国】より
…中国で,907年(天祐4)に唐が滅び,960年(建隆1)に宋が成立して979年(太平興国4)に統一を完了するまでの時期を,五代十国時代という。この間,華北では後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したので五代といい,その他の地域に前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越,閩(びん),荆南(南平),楚,南漢,北漢などが併存したので十国という。唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。…
※「呉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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