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董卓 とうたくDong Zhuo; Tung Cho

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

董卓
とうたく
Dong Zhuo; Tung Cho

[生]?
[没]初平3(192).4.23.
中国,後漢末の群雄の一人。隴西 (甘粛省) の人。字は仲潁。若い頃から侠気があり, (きょう) 族の首長たちを手なずけていた。黄巾の乱討伐に参加し,次いで関中に起った辺章らの乱を平定。強力な軍事力を背景に并 (へい) 州牧となり,半独立の勢いを示した。

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世界大百科事典 第2版の解説

とうたく【董卓 Dŏng Zhuō】

?‐192
中国,後漢末の群雄の一人。臨洮(甘粛省)の人。字は仲頴。性格は粗暴で腕力にまさり,羌(きよう)族の長を懐柔して勢力を養う。霊帝の末年に幷州牧となり,強大な軍隊を率いて時勢を観望する。189年に外戚の何進の宦官誅滅計画に応じて洛陽に進軍すると,献帝を擁立して政権を掌握するとともに暴虐のかぎりをつくした。190年(初平1),袁紹を盟主とする董卓討伐軍が組織されると彼は長安に遷都したが,いよいよ凶暴となり,部下の呂布に殺された。

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大辞林 第三版の解説

とうたく【董卓】

?~192) 中国、後漢末の群雄の一人。強力な軍隊を背景に少帝を廃して献帝を擁立し、一時政権を掌握したが、部下の呂布に殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

董卓
とうたく
(?―192)

中国、後漢(ごかん)末の群雄の1人。隴西(ろうせい)(りんとう)(甘粛(かんしゅく)省岷(びん)県)の人。若いときから侠気(きょうき)があり、羌(きょう)族の首領たちを手なずけた。下級武官を振り出しに、地方、中央の武官を歴任して功をたて、その間に強大な軍隊をもつようになった。当時、宮廷では大将軍何進(かしん)らが宦官(かんがん)の誅滅(ちゅうめつ)を計画していたが、霊帝が死に少帝がたつと(189)、董卓の兵力を利用しようとした何進は、董卓を洛陽(らくよう)に召集した。董卓は入洛の途上、宮城外に避難していた少帝を擁して入洛し、都を制圧して少帝を殺し、献帝をたて、横暴のふるまいが多かった。そのため宦官を滅ぼして勢いにのった袁紹(えんしょう)らが、董卓討伐の兵をあげると、董卓は献帝を伴って長安に遷都した。しかし、長安でも凶暴なふるまいが多く、王允(おういん)は朝会の場で、董卓の将呂布(りょふ)に董卓を殺させた。[五井直弘]

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世界大百科事典内の董卓の言及

【漢】より

… 黄巾の主力軍が平定されると,外戚と宦官による相も変わらぬ権力争いが再開されたが,189年に外戚何進らによる宦官誅滅計画がもれて何進が宦官に殺されると,禁軍の将袁紹は2000余人の宦官をことごとく殺すという荒療治で宦官を一掃した。このあと袁紹に代わって都を制圧した董卓(とうたく)は,献帝を擁立して政権を掌握するとともに暴虐のかぎりをつくした。当時,黄巾の乱が起こると,各地の豪族は自衛のために宗族や賓客,小作人らを組織して武装集団をつくっていたが,いっぽう地方の州牧(州の刺史)や太守は軍・民両政の全権を掌握し,これら武装集団を糾合してしだいに群雄化していった。…

【三国時代】より

…まず外戚何進(?‐189)は洛陽警備のために八校尉を置いたが,やがて自立して群雄となる袁紹曹操ともにその一人である。何進はまた宦官勢力を一掃すべく山西方面の軍団長董卓(とうたく)に入朝を要請した。董卓は宦官たちを殺戮したのち朝権を握り,暴挙を行ったので,士大夫層は袁紹を盟主として董卓討滅の軍を起こした。…

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