後鞆村(読み)しりへとむら

日本歴史地名大系 「後鞆村」の解説

後鞆村
しりへとむら

[現在地名]浦河郡浦河町字月寒つきさつぷ・字白泉しろいずみ・字西幌別にしほろべつ

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。「しりへとも」(「事業報告」第一編)、「しりとも」(内務省地理局編「地名索引」)などともいった。浦河郡の南部に位置し、西は踏牛ふむにうし村、北東あか(フレベツ)をもって塘沸とうふつ村に接していた。北方は丘陵地で、南は太平洋に面する(「浦河町管内図」浦河町史、「状況報文」など)近世史料シリエトモ(シロイツミとも)とみえる地などからなる。「日高国地誌提要」に後鞆村とある。明治三年ウラカワ場所の会所番人であった谷藤正蔵ら五人が開拓使から一戸当り一一〇円の年賦金を拝借して家作をし移住している。


後鞆村
しりへとむら

明治一五年(一八八二)から同三五年までの村。明治一五年に後鞆村と踏牛ふむにうし村が合併して成立。入植者の増加は明治二五、六年以降に顕著で(状況報文)、明治二〇年に一七戸・七二人であった戸口は、同二五年には三九戸・一三二人となっている(道戸口表)。同年浦河尋常小学校後鞆分校を開設(浦河町史)。同三〇年の戸口は三五戸・一九一人で、秋田県からの移住者が最も多く、次いで鳥取県・京都府(丹後)・青森県などが続き、移住者のための旅舎二戸もあった。この頃における産業状況は、漁業では昆布採取船四六艘、鮭建網・同施網各一統、鮫釣川崎船一艘・同持符船四艘、鰈漁川崎船一艘を有し、各漁獲量は昆布八一七石・鮭一九五石・鮫一五石・鰈六五石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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