(1)古代律令制下で位階官職をもたない一般人民をさした語。百姓,公民,良民と同様な意味で用いられた身分呼称であった。《令義解(りようのぎげ)》で〈家人(けにん),奴婢(ぬひ)〉について〈すでに平民に非ず〉といわれているように,賤民である家人や奴婢は平民身分から除外された。また公民の籍帳から外れた浮浪人も平民とはみなされなかったが,浮浪帳に編付され調庸を負担している浮浪人は,弘仁年間(810-824)の太政官符により水旱不熟の年には平民に準じて調庸が免除されることになった。やがて籍帳による支配の崩壊にともなって公民と浪人の区別がなくなり,公田を請け負って経営する大小の田堵(たと)百姓らが一般に公民,平民と呼ばれるに至り,荘民・寄人(よりうど)や下人(げにん)・所従(しよじゆう)との区別が生まれてくる。寛徳・延久の荘園整理令(1045,69)は公民の荘民化について,〈平民おのれを顧みる者〉とか〈恣(ほしいまま)に平民を駈(か)り〉と述べ,また荘園側も〈平民に準じて方々色々の雑役を充て責める〉,荘民は〈平民公田の負名ではない〉と反論したことにみられるように,当時の平民は荘民と区別された公民を意味した。平安末・鎌倉初期に中世荘園体制が確立すると,荘園の名主(みようしゆ)百姓が平民と呼ばれ,荘田を分割・編成した名田も〈平民名(へいみんみよう)〉と称せられた例がある。これに対して,平民である名主百姓の負担する年貢・公事(くじ)等を免除される特権を有し,諸種の職能をもって本所(ほんじよ)に奉仕する〈職人〉は平民と異なる身分とされ,また在地領主や有力名主に人身的に隷属した下人・所従ら非自由民も,平民とはみなされなかった。荘園制下では百姓と呼ばれる者が一般に平民身分に相当する。百姓には名主,平百姓,脇百姓,小百姓などといわれるような諸階層があったが,なかでも平百姓は平民百姓のことであろうと思われる。
執筆者:戸田 芳実(2)近世には,平民は武士に対する農工商などの総称として用いられ,明治維新後は皇族,華族,士族とならぶ族称として用いられた。1869年(明治2)まず華族,士族,卒(微禄の者)が設けられ,それ以外を平民とした。70年平民の苗字を許し,71年には異なる族の間の結婚,職業選択の自由を認め,従来の〈えた・非人〉身分を廃し,〈平民同様〉とした。こうして四民平等が実現したが,それは近世の士農工商の身分制の消滅であって,新たに皇族,華族,士族(卒は1872年廃止され,世襲の卒は士族,一代抱えは平民に編入),平民の身分がつくられたのである。戸籍上も〈東京府士族〉とか〈大阪府平民〉というように府県名と族称を付していた。士族は廃刀令や秩禄処分によって特権を失ったが,士族という族称が残されたために,特有の士族意識をもちつづけ,それを政府がたくみに利用して華族とともに国家社会の藩屛たらしめようとした。政府は維新当初は平民層をしきりに人民と呼び,被治者たることを強調したが,人民の自由や権利の確立を求める主張や運動が起こってくると,国家意識を強調するため国民の語を用いはじめた。一方,〈平民同様〉とされた被差別部落民は,〈新平民〉などと差別されつづけていた。87年徳富蘇峰が民友社を創立して《国民之友》を創刊し,欧化主義,国粋主義に反対して平民主義を唱え,〈ミッドルクラス(中産階級)〉の支持を得ようとした。これに対し,中江兆民は翌年《東雲新聞》に〈新民世界〉を書いて平民主義は貴族を意識し,他方で〈新平民〉を差別する旧民主義ではないかと批判している。しかし士族意識が濃厚で官尊民卑の強かった明治時代には,平民主義は一定の革新性ももっていた。日清戦争後,徳富蘇峰が転向すると平民主義は非戦論,社会主義のスローガンとなり,1903年幸徳秋水,堺利彦の平民社創立以後《平民新聞》,日本平民党,《平民》などの名称に用いられた。1914年戸籍法改正により平民の族称は廃止された。
執筆者:田村 貞雄
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1869年(明治2)明治新政府が、旧幕藩制社会の身分秩序を廃止した際、それまでの農・工・商の三民につけた身分上の呼称。政府は新政の基本方針の一つとして、「四民平等」を宣言したが、なお皇族、華族、士族、平民のように、国民のなかには差別的呼称が残された。政府は農・工・商を平民に一括して、70年彼らに姓(苗字(みょうじ))を許可した。その結果、それまで原則として苗字がなかった町人、農民にも、強制的に姓を唱えさせる措置がとられた。その翌年、政府は平民に乗馬や、羽織、袴(はかま)の着用を許し、また華族から平民に至るまで相互に婚姻の自由も認めることになった。ついで同年、従来から「穢多(えた)」「非人」とよばれてきた被差別民に対する身分外身分も撤廃され、平民籍に編入された。こうして、平民とは単に家系を示す呼称に限られ、それまでのように、華族や士族の下位に位置づけられ、彼らに従属する関係ではなくなり、法制上でも同等に扱われることになった。しかし、戸籍記載の場合に残された平民の呼称が完全に消失するのは、90年の戸籍法の制定以降であったように、旧来の華族、士族、平民を格づけた身分意識は、国民の間に長く残存した。事実、明治維新や初期民権運動などで士族が積極的に行動して、農民その他を指導したことが多かった。しかし、教育の普及、知識の向上などにより、1880年代後半以降、たとえば、平民主義が主張され、平民社の結成、『平民新聞』の刊行などのように、いわゆる平民とよばれた華・士族以外の諸階層の台頭が目覚ましくなっていった。
[石塚裕道]
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古代律令制下では公民・百姓と同義で,中世には課役免除の職人身分と区別して,荘園・国衙領の百姓を平民とよんだ。近世にはあまり使用されなかった。明治維新後に,華族・士族に対する一般人民の呼称として平民が採用され,戸籍にも表示された。穢多(えた)・非人身分は解放令で平民とされたが,差別的に「新平民」などとよばれた。平民には近代の平民主義に代表される自由や平等を表現する用例もある。
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…西ヨーロッパの封建時代,絶対主義時代には,聖職者,貴族に次いで第3番目の身分という意味で聖職者,貴族以外の者がしばしば第三身分あるいは平民と呼ばれた。そして,この3身分はおのおの天与の職分を帯び,相互に調和的に結合して社会を形成していると考えられた。…
…大逆事件に際しては《ユマニテ》などを通して広く世界に,日本政府の弾圧ぶりを紹介し,国際的に反響を引き起こす。14年渡米し,サンフランシスコを中心に活躍,雑誌《平民》(1916‐19)を発行する。ロシア革命後,共産主義革命観に転換し,在米日本社会主義者団を組織,アメリカ共産党に参加するなど,アメリカ,メキシコを中心に活動した。…
…このうち微禄の者は同年12月に卒とされ,士族は18等,卒は3等に分けられた。この士族のもとに,農工商は平民と称せられた。72年1月,卒は廃止され,世襲の卒は士族へ,一代抱えの卒は平民に編入された。…
…明治維新期,従来の士農工商などの封建的身分制を廃した政策。しかしこれで身分制はなくならず,華族・士族・平民に再編成され,被差別部落民も残存された。その過程は,1869年(明治2)6月版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に,平士以上の藩士などを士族としたことに始まる。…
…戦士としての騎士身分と農民身分の明確な分離,市民身分の出現などは,その顕著な表れである。ヨーロッパの中世都市は,古代のポリスやキウィタスとは異なり,農村地域とはっきり区別された特別の法領域であったから,聖職者や貴族など封建領主たる上位の諸身分に対しては,市民が農民とともに〈平民〉身分(フランスの〈第三身分〉)とみなされることもありえたが,法制上,市民は明らかに農民と別個の身分であった。ただ,イギリスにおいては,かなり早くから下級貴族たる騎士身分が,軍役代納金制の普及や傭兵使用の開始により,戦士の機能を失って地主化の道を歩んだため,ジェントリーという独特な名望家階層が形成された。…
※「平民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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