得善保
とくぜんほ
現徳山市大字下上の小名に徳善という地名があり、得善保の内であったとされるが、正確な領域は不詳である。
周防国衙領で、文治二年(一一八六)東大寺造営料とされたが、末武保(現下松市域)と得善保の地頭であった筑前太郎家重らが押領などの狼藉を働き、翌三年二月には周防在庁官人が連署してその停止を東大寺大勧進重源に訴え、重源はそれを添えて朝廷に嘆願したことが「吾妻鏡」同年四月二三日条にみえる。しかし依然として地頭の横暴は継続したらしく、東大寺勧進所は再三にわたり朝廷や幕府に訴えている(嘉禎二年五月七日付「摂政九条道家御教書」菊亭家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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