朝日日本歴史人物事典 「徳大寺公継」の解説
徳大寺公継
生年:安元1(1175)
鎌倉時代の公卿。左大臣実定の3男。母は上西門院女房。建久1(1190)年に参議となり,左大臣にまで昇った。幼時から才芸の誉れが高く,長じては朝政の場において安易に大勢に与せず,ひとり正論を述べて臆するところがなかった。すぐれた知性と確かな教養にもとづいて,合理的な判断をくだすことのできる人物だったといえよう。『古今著聞集』には,公継が幼いころから大臣の相をあらわしていたばかりでなく,自分で自分の人相を観て,己の死期などもあらかじめ知っていたという説話がみえており,その人柄のうちの一種のカリスマ性を感じさせる。また,法然に師事する熱心な念仏信者で,信徒のうちでも指導的な立場にあったらしい。琵琶・神楽・催馬楽の血脈にも名前が載る。その人柄・教養・信仰を慕ってくる者も多く,公継を中心とするサロンともいうべきグループが形成されていたと思われる。ただし,個性が強く,周囲の思惑をかえりみない行動が目立つだけに敵も多く,藤原定家などは『明月記』のなかに,公継に対する罵言を書き連ねている。なお,彼の死は往生であったと伝えられる。野宮左大臣と呼ばれ,『宮槐記』断簡を残している。<参考文献>多賀宗隼『論集中世文化史』上
(本郷恵子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報