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徳大寺公継 とくだいじ きんつぐ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳大寺公継 とくだいじ-きんつぐ

1175-1227 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
安元元年生まれ。徳大寺実定(さねさだ)の3男。承久(じょうきゅう)の乱の際,後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府と関係のふかかった西園寺公経(さいおんじ-きんつね)を殺害しようとしたのをいさめた。元仁(げんにん)元年左大臣となり,野宮左大臣とよばれた。従一位。嘉禄(かろく)3年1月30日死去。53歳。初名は公嗣。日記に「宮槐(きゅうかい)記」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳大寺公継

没年:安貞1.1.30(1227.2.17)
生年:安元1(1175)
鎌倉時代の公卿。左大臣実定の3男。母は上西門院女房。建久1(1190)年に参議となり,左大臣にまで昇った。幼時から才芸の誉れが高く,長じては朝政の場において安易に大勢に与せず,ひとり正論を述べて臆するところがなかった。すぐれた知性と確かな教養にもとづいて,合理的な判断をくだすことのできる人物だったといえよう。『古今著聞集』には,公継が幼いころから大臣の相をあらわしていたばかりでなく,自分で自分の人相を観て,己の死期などもあらかじめ知っていたという説話がみえており,その人柄のうちの一種のカリスマ性を感じさせる。また,法然に師事する熱心な念仏信者で,信徒のうちでも指導的な立場にあったらしい。琵琶・神楽・催馬楽の血脈にも名前が載る。その人柄・教養・信仰を慕ってくる者も多く,公継を中心とするサロンともいうべきグループが形成されていたと思われる。ただし,個性が強く,周囲の思惑をかえりみない行動が目立つだけに敵も多く,藤原定家などは『明月記』のなかに,公継に対する罵言を書き連ねている。なお,彼の死は往生であったと伝えられる。野宮左大臣と呼ばれ,『宮槐記』断簡を残している。<参考文献>多賀宗隼『論集中世文化史』上

(本郷恵子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の徳大寺公継の言及

【徳大寺家】より

…藤原氏北家閑院流の権大納言公実の男左大臣実能を始祖とする堂上公家。閑院流は歴代の子女が天皇の後宮に入っている。たとえば公成の女茂子は後三条天皇の女御となって白河天皇を生み,実季の女茨(苡)子が堀河天皇の妃となって鳥羽天皇を生み,公実の女璋子は鳥羽天皇の皇后になって,崇徳・後白河両天皇を生んでいる。特に院政を行った白河・鳥羽・後白河3上皇がすべてこの流からでているので,院政期に勢力があり,公実の3子,すなわち実行が三条家を,通季が西園寺家を,実能が徳大寺家を起こし,いずれも摂関家につぐ清華という家格となった。…

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