徳大寺実定(読み)とくだいじ・さねさだ

朝日日本歴史人物事典 「徳大寺実定」の解説

徳大寺実定

没年建久2.閏12.16(1192.2.1)
生年保延5(1139)
平安後期の公卿,歌人右大臣藤原公能と権中納言藤原俊忠の娘豪子の子。代々皇妃,国母を輩出した閑院流の流れを汲み,同母姉妹に忻子(後白河天皇中宮),多子(近衛・二条両天皇の后)がいる。永治1(1141)年3歳で叙爵。順調に昇進し,応保2(1162)年従二位,長寛2(1164)年権大納言になるが,翌年藤原実長の位階を超えるために大納言を辞して代わりに正二位に上り,官位は以後停滞する。治承1(1177)年3月還任,同年12月左大将。自家に蔵する豊富な書物を基礎に有職故実に秀でる。寿永2(1183)年内大臣。同年源義仲が平家を西国に落として入京し入道関白藤原基房と結託し,実定の内大臣職を借用して基房の子の師家を11月に内大臣とするが,翌年1月義仲の失脚とともに還任,文治1(1185)年平家滅亡後,源頼朝奏請で議奏公卿のひとりとなり,翌年右大臣。同5年左大臣。建久1(1190)年辞任した。翌年出家,法名如円。詩歌管絃,芸能に優れる。特に和歌は沈淪していたころに歌人集団・歌林苑の会衆として活躍し,嘉応2(1170)年建春門院北面歌合 を結構する。他にも多くの歌合,詩歌合などを主催,また出席する。治承3年ごろに家集『林下集』を編む。『無名抄』『歌仙落書』などには歌や歌人としての評価が毀誉半ばして記される。『千載和歌集』以下の勅撰集に76首入集。また,笛,神楽,今様などにも通じる。日記『槐林記(庭槐抄)』は一部分が残る。

(櫻井陽子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「徳大寺実定」の意味・わかりやすい解説

徳大寺実定 (とくだいじさねさだ)
生没年:1138-91(保延4-建久2)

平安後期~鎌倉初期の公卿。1177年(治承1)大納言兼左大将,83年(寿永2)内大臣。86年(文治2)源義経謀反事件後の源頼朝の朝廷介入により右大臣,89年左大臣となって朝幕間を取り次いだ。91年(建久2)出家,法名は如円。後徳大寺左大臣と呼ばれる。その日記を《槐林記》という。その死に際しては〈幕下(頼朝)殊に歎息し給う。関東由緒あり,日来重んぜらるる所也〉と《吾妻鏡》は記しており,頼朝の信頼ぶりがうかがえる。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳大寺実定」の解説

徳大寺実定 とくだいじ-さねさだ

1139-1192* 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
保延(ほうえん)5年生まれ。徳大寺公能(きんよし)の長男。寿永2年源義仲(よしなか)により内大臣の地位を藤原師家(もろいえ)にかえられるが,翌年義仲の死で復職。源頼朝の奏請で議奏公卿のひとりとなり,右大臣,のち左大臣にすすむ。正二位。和歌もよくし,「千載和歌集」以下に作品がのこる。後徳大寺と称された。建久2年閏(うるう)12月16日死去。53歳。
【格言など】ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる(「小倉百人一首」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳大寺実定」の意味・わかりやすい解説

徳大寺実定
とくだいじさねさだ

藤原実定

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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