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西園寺公経 さいおんじきんつね

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

西園寺公経
さいおんじきんつね

[生]承安1 (1171). 京都
[没]寛元2 (1244).8.29. 京都
鎌倉時代中期の廷臣。藤原実宗の子,母は藤原基家の娘。嘉禄年間(1225~27)頃京都北山の別荘につくった仏堂を西園寺と名づけたので,この一門を西園寺家という(→鹿苑寺)。源頼朝の姪にあたる一条能保の娘を妻とし,親幕派貴族の筆頭とみられたため,承久の乱(1221)に際して後鳥羽上皇側に逮捕,拘禁されたが,この乱が幕府北条氏の勝利に終わると,京都朝廷は公経を中心に再編成され,内大臣を経て貞応1(1222)年太政大臣となり,摂関をしのぐ権勢を誇った。

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百科事典マイペディアの解説

西園寺公経【さいおんじきんつね】

鎌倉前期の公卿(くぎょう)。父は藤原実宗(さねむね)。源頼朝の外戚として勢力を伸ばし,承久の乱前後の時期には関東申次(かんとうもうしつぎ)の役を務めた。承久の乱に際しては京の情勢を鎌倉幕府に伝え,1222年に太政(だいじょう)大臣,翌年には従一位に進んだ。
→関連項目一条実経吹田

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

西園寺公経 さいおんじ-きんつね

1171-1244 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
承安(じょうあん)元年4月生まれ。西園寺実宗(さねむね)の次男。妻は源頼朝(よりとも)の姪(めい)一条全子。承久(じょうきゅう)の乱で,後鳥羽(ごとば)上皇の倒幕の企てを幕府に通報した。貞応(じょうおう)元年太政大臣となる。従一位。京都北山に西園寺(のちの鹿苑(ろくおん)寺)を建立し家名とした。寛元2年8月29日死去。74歳。法名は覚勝。
【格言など】花誘ふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり(「小倉百人一首」)

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世界大百科事典 第2版の解説

さいおんじきんつね【西園寺公経】

1171‐1244(承安1‐寛元2)
鎌倉前期の公卿。鎌倉幕府との強い結びつきを背景に,承久の乱以後絶大な権勢を誇った。西園寺家は藤原氏北家閑院流,権中納言通季を祖とし,公経はその曾孫。西園寺の家名は,公経が1224年(元仁1)に京都北山の地(現在,鹿苑寺金閣のあるあたり)に西園寺を造営して移り住み,西園寺殿と称されたことに由来する。公経と幕府との結びつきは,公経が源頼朝の妹婿一条能保の女をめとったことに始まり,源実朝の死後には,公経が養育していた外孫九条三寅(後の頼経)を将軍後継者として鎌倉に下らせた。

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大辞林 第三版の解説

さいおんじきんつね【西園寺公経】

1171~1244) 鎌倉前期の公卿。藤原氏。承久の乱後、内大臣、太政大臣。京都北山の別荘に西園寺を建立、これが家名となる。歌人としては新古今和歌集以下の勅撰集に一一四首入集。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

西園寺公経
さいおんじきんつね
(1171―1244)

鎌倉前期の政治家。法名覚勝。父は藤原実宗(さねむね)、母は藤原基家(もといえ)の女(むすめ)。平氏政権時代に官途につき、鎌倉幕府成立以来、朝廷内の親武家派となった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき、いち早く朝廷の情勢を幕府に通報してその勝利を導いたので、乱後幕府の後援を得て京の政界を圧する勢いを築いた。摂関(せっかん)家を操縦し、太政大臣(だいじょうだいじん)となり、孫女を入内(じゅだい)させて皇室の外戚(がいせき)となった。加えて、多くの荘園(しょうえん)や宋(そう)との貿易による莫大(ばくだい)な収入で豪華奢侈(しゃし)を極めた。なかでも京都北山(きたやま)に菩提寺(ぼだいじ)として西園寺を建立し豪華な園池をつくって別荘とし、天下の壮観とされた。のち、これに基づいて西園寺家と称した。同寺は鹿苑院(ろくおんいん)(金閣寺)の前身である。公経は家業たる琵琶(びわ)のほか、和歌をよくし、『新古今集』以下の勅撰(ちょくせん)集にその歌が多く採られている。なお曽祖父(そうそふ)通季(みちすえ)から乗用の車を伝え、その模様にちなんで鞆絵(ともえ)大将とよばれた。寛元(かんげん)2年8月29日没。[多賀宗隼]
『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』

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世界大百科事典内の西園寺公経の言及

【鎌倉時代】より

… 確かに承久の乱後も院政は継続しているが,その実質は変化し,治天の君はかつての独裁権を失っていた。乱後の朝廷の政治を指導したのは実は治天の君ではなく,幕府と関係の深い西園寺公経とその女婿の九条道家であった。公経は頼朝と姻戚関係にあり,承久の乱にも幕府を支持し,幕府の絶対の信頼を得ていた。…

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