徳禅寺(読み)とくぜんじ

日本歴史地名大系 「徳禅寺」の解説

徳禅寺
とくぜんじ

大徳寺の塔頭霊山と号する。梶井門跡尊胤親王が大徳寺二世の徹翁義亨に帰依し、船岡ふなおか山の東麓にあった梶井門跡の敷地を賜って創建したのに始まる(大祖正眼禅師行状)応仁の兵火で焼失し、文明年間(一四六九―八七)に至り一休宗純によって現在地に再興されたが、その後しだいに衰退、慶長(一五九六―一六一五)初年に至って順慶が出て客殿を新築、旧客殿を庫裏とした。「都林泉名勝図会」には「前に池築山あり、山中に玲竜閣・竹影閣あり、池中へ舟を泛て往来す、今の松源善徳及び寺前の民家みな、いにしへの霊山の境内に今の養徳の前庭、安居院門西北の隅なをかの池の旧岸あり、みな田隴となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の徳禅寺の言及

【名田荘】より

…上・下両荘に分かれ,上荘は上村・坂本・中村・下村,下荘は知見・三重・田村の各村から成っていた。伊予内侍ののち,領家職は娘の大姫御前,その子藤原実忠,実忠外孫実盛へと伝えられ,以後ほとんど村ごとにきわめて複雑な伝領の経過を示したが,やがて14世紀半ばから後期に至り,それらの大部分は大徳寺の徳禅寺徹翁義亨に伝えられた。本家職も蓮華王院が終始唯一の存在ではなかったらしく,ある時期には亀山・後宇多両上皇や万秋門院(藤原子)が本家的存在であったことを示す史料があり,1265年(文永2)の若狭国惣田数帳には,名田荘57町6段200歩の本家が円満院とある。…

※「徳禅寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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