志手村(読み)してむら

日本歴史地名大系 「志手村」の解説

志手村
してむら

[現在地名]津久見市志手町・地蔵町じぞうまち下青江しもあおえ 志手

おか村の東、青江川の下流左岸に位置する。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち道尾組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ、高一五〇石余(田方一三〇石余・畑方二〇石余)、村位は上。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳でも同高で、本高一二九石余・出来高二〇石余、水損所。


志手村
してむら

[現在地名]豊後高田玉津たまつ 志手町・磯町いそまち池田いけだ

芝崎しばさき村の北西かつら川下流右岸の舌状台地先端部およびその裾に位置する。江戸時代の領主変遷高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二二三石余、家数四九(うち百姓一六・寺一・鍛冶一、うらや・庭や・牛や二九)・人数一〇八(うち百姓一六・名子四)、牛九。正保郷帳では来縄くなわ郷に属し、田方六五石余・畑方八三石余・高田城屋敷引九二石余、日損所、新田がある。


志手村
してむら

[現在地名]大分市三芳みよし 志手など

府内城の南西住吉すみよし(毘沙門川)流域に広がる村。駄原だのはる村の南に位置し、城下笠和かさわ口を出て西新にしじん町から堀切ほりきり峠へ通じる府内・日田往還が通る。正保郷帳に村名がみえ田高六一石余・畑高一三石余、笠和郷に所属。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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