芝崎村(読み)しばさきむら

日本歴史地名大系 「芝崎村」の解説

芝崎村
しばさきむら

[現在地名]流山市芝崎・宮園みやぞの三丁目

八木やぎ台地から東へ突き出した丘陵上、古間木ふるまぎ村の南に位置する。西はなか村、南部の低地を流れるさか川を境に南は幸田こうで(現松戸市)。柴崎とも記した。中世末期より高城氏家臣吉野氏の居村として開けた。永禄七年(一五六四)二月一九日、高城胤辰は「従前代持来田地屋敷」が不当に横領されそうな事件が発生したとしても「吉野見つけとの」に安堵すると約束している(「高城胤辰安堵状」吉野家文書)。天正二年(一五七四)一二月二日の喜連川家料所記(喜連川文書)には庄内河辺しようないかわべのうちとして「柴崎 河村刑部」とある。同一八年二月一〇日の高城氏印判状(吉野家文書)によると高城氏は「八木村百姓中」に対し、「吉野縫殿助屋敷」うちの掘替えとひれさき村境までの新堀開削を命じ、検使の派遣を伝えた。


芝崎村
しばさきむら

[現在地名]豊後高田市玉津たまつ 中町なかまち下町しもまち上町かんまちさかうえ新屋敷しんやしき

高田たかだ村の北、かつら川下流右岸美和みわ台地先端付近に位置する。柴崎とも書く(豊国紀行)。江戸時代の領主の変遷は高田村に同じ。小倉藩元和人畜改帳にみえる芝原村が当村のことと思われ、高三六八石余、家数一八五(うち百姓八五・町人八・寺三、庭屋・うらや・牛屋七三)・人数五五九(うち百姓八五・名子六八)、牛一一・馬二三。


芝崎村
しばさきむら

[現在地名]光町芝崎

宮川みやがわ村の北西に位置する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられ、在地領主としては千葉氏族の椎名氏が知られる。神代本千葉系図は千葉介常繁(常重)の庶子である椎名胤光の子息に芝崎胤忠を載せ、さらに弥八郎へと継いでいる。また千葉大系図は福岡系椎名氏の一族として台・岩室・小田部・柴崎(芝崎)諸氏を載せ、胤忠に小田部・柴崎と脚注している。うえだいの芝崎城跡は、小田部胤忠の居城であったと伝える。天文四年(一五三五)一二月二〇日の勝信知行充行状写(神保文書)に「柴崎」とみえ、勝信が当地を備前なる者(椎名氏か)に宛行う旨を坂田さかた(現横芝町)の井田氏に告げている。


芝崎村
しばさきむら

[現在地名]西区平野町芝崎ひらのちようしばさき

明石川の左岸に位置し、南は慶明けいめい村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方二九四石余・畑方五一石余、芝山あり。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西二町五〇間・南北一町一八間、人数二一五・家数三三。郷蔵・池六・小藪一九・土橋五・大野おおの村との立会池三。竹宮、観音堂・大日堂、福性寺があり、旦那寺は慶明寺。


芝崎村
しばさきむら

[現在地名]大飯町芝崎

佐分利さぶり川の右岸にあり、西は川を隔てて岡田おかだ村に対する。「若狭郡県志」に「芝崎村属佐分利郷、去小浜三里許也」とある。寛永一一年(一六三四)の酒井家々老連署郷組中掟書(荒木家文書)宛名に「芝崎村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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