恒明親王(読み)つねあきしんのう

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「恒明親王」の解説

恒明親王 つねあきしんのう

1303-1351 鎌倉-南北朝時代,亀山天皇の第7皇子。
乾元(けんげん)2年5月9日生まれ。母は昭訓門院天皇寵愛(ちょうあい)をうけ,その所領と常磐井(ときわい)殿をゆずられ常磐井宮(初代)といわれた。一品(いっぽん)式部卿に任じられた。建武(けんむ)3=延元元年足利尊氏の比叡山(ひえいざん)攻めに対し,大将軍として防戦した。観応(かんのう)2=正平(しょうへい)6年9月6日死去。49歳。

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367日誕生日大事典 「恒明親王」の解説

恒明親王 (つねあきしんのう)

生年月日:1303年5月9日
鎌倉時代後期;南北朝時代の亀山天皇の皇子
1351年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の恒明親王の言及

【八条院】より

…しかし亀山上皇は関東に申し入れて八条院領の伝領承認を求め,幕府もこれを認めたので,この荘園群はすべて亀山の管領下に入り,大覚寺統の最大の経済的基盤となったのである。1302年(乾元1)亀山はいったんそのすべてを後宇多上皇に譲るが,05年(嘉元3)これを改め,庁分を後宇多に与えたのみで,他の御願寺領を後宇多の異母弟恒明親王に譲る。06年(徳治1)の目録によると荘園数はさらに増えているが,亀山の死後,後宇多は安楽寿院領を除き他の御願寺領を恒明から取り戻し,08年(延慶1)一期(いちご)の後(当人死後)はすべて後二条天皇の子邦良親王に譲与する条件で,子息尊治親王(後醍醐天皇)に譲った。…

※「恒明親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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