ボニファティウス(8世)
ぼにふぁてぃうす
Bonifatius Ⅷ
(1235ころ―1303)
中世末期の代表的ローマ教皇(在位1294~1303)。イタリアの名門ガエタニ家に生まれる。前名Benedetto Gaetani。ボローニャ大学でローマ法および教会法を修めたのち、教皇庁に入って枢機卿(すうききょう)となり、とくに外交面で活躍。教皇に選出されたあとは、教会法の編纂(へんさん)を命じ、また法学的知識を駆使して教皇権の拡大に努めたが、激しい性格と権力志向の強さのために、その在位期は激しい闘争に彩られた。とくに、フランス王フィリップ4世(美王)との争いは教皇を破局に追い込んだ。中央集権化を推進していたフィリップが、戦費調達のために聖職者への課税策をとったのに対し、教皇は教令「クレリキス・ライコス」(1296)、「アウスクルタ・フィリ」(1301)および「ウナム・サンクタム」(1302)を発して、王権の教会への関与を非難し、教皇権こそが世界を主導するべきものと主張した。王権側はローマ法学者ギヨーム・ド・ノガレを擁してこれに対抗、ローマの大貴族コロンナ家と結んで1303年9月アナーニに教皇を急襲し、暴力に訴えて退位を迫った。精神的打撃を受けた教皇は1か月後にローマで死去した(アナーニ事件)。彼は、教皇を中心とするキリスト教世界の統一と平和という中世的理想を追求したが、国家権力の成長という時代の潮流に十分に対応しきれず、やがて教皇権はアビニョン時代を迎える。
[梅津尚志]
ボニファティウス
ぼにふぁてぃうす
Bonifatius
(675/680―754)
キリスト教の聖人。イギリス、ウェセックスに貴族の子として生まれる。本名Winfrith Boniface。長じてベネディクト会の修道者となる。初めフリースラント(オランダ、ドイツの北部)に赴き、伝道に尽くしていたが、さらにチューリンゲン、ザクセン、ヘッセンなどドイツの奥地に入り、ゲルマン人に対する布教に活躍した。しかし最後に、異教を捨てない狂暴な者たちの襲撃を受け、殉教を遂げた。フルダの修道院に葬られ、「ドイツ伝道の使徒」と崇(あが)められている。祝日は6月5日である。伝道に際して、彼が行ったゲルマン民族の神話と習俗の記録は、現在貴重な資料となっている。
[植田重雄 2017年12月12日]
『池田敏雄著『教会の聖人たち 上巻』(1977/改訂増補版・1981・中央出版社)』
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ボニファティウス
Bonifatius
生没年:680-754
中世初期にドイツへのキリスト教伝道を行った司教。〈ドイツ人の使徒〉と呼ばれる。イングランドのデボンシャーのクレディトンに生まれ,7歳で修道院に入る。本名はウィンフリードWinfrid。716年フリースラントに伝道するが失敗して帰国,翌年ローマに向かい教皇グレゴリウス2世から異教伝道の許可とボニファティウス(善行をなす者)の名を与えられ,ヘッセンで活動し数千の受洗者を得る。722年第2回目のローマ訪問で司教座なしの司教に任命され,教皇の全面的支援を保証される。ヘッセン伝道中,住民に神木とされていた樫の木を切り倒して偶像礼拝の無意味なことを知らせたという話は伝道の成功を物語る。738年3度目のローマ訪問をした後バイエルンに向かい,ここでも4司教座を設置した。741年にカール・マルテルが没すると,フランク教会の第一人者として,一連の教会会議を通じて教会の改革と組織化に努め,747年マインツ大司教となったが,数年後フリースラント伝道に赴き,異教徒の襲撃を受けて殉教した。
執筆者:今野 國雄
ボニファティウス
Bonifatius
生没年:?-432
ローマ帝国末期の武将。423-432年アフリカ軍司令官。ガラ・プラキディアに忠誠を尽くしていたが,427年おそらく対抗する有力将軍の策謀もあって一時的に彼女の不興を買い,宮廷へ召喚された。彼がこれを拒否すると征討軍が派遣され,429年第2次遠征隊はカルタゴとヒッポを占領。このアフリカでの内戦状態に乗じて,スペインにいたバンダルは同年アフリカへ渡ったが,史料が伝えるボニファティウスのバンダル招請は事実かどうか疑わしい。その後ラベンナ政府とは和解した。
432年イタリアへ戻り,アエティウスの勢力強大化を憂えるガラ・プラキディアからパトリキウス称号を授与された彼は,アエティウスと戦って戦闘には勝ったものの,その時の負傷がもとで3ヵ月後に死去した。
執筆者:後藤 篤子
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百科事典マイペディア
「ボニファティウス」の意味・わかりやすい解説
ボニファティウス[8世]【ボニファティウス】
ローマ教皇(在位1294年―1303年)。中世的教皇権の再興に努め,近世国家の絶対主義王権をめざすフランス国王フィリップ4世に対抗。1296年フランスの聖職者課税に反対し,1302年教書〈ウナム・サンクタム〉で教権が俗権にまさることを宣した。しかし1303年アナーニ事件でフィリップに敗れ,憤激のうちに没。その死後教権は衰退。
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ボニファティウス
Bonifatius (本名 Winfrid)
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ボニファティウス(8世)
Bonifatius Ⅷ
本名 Benedetto Gaetani
1235ごろ〜1303
ローマ教皇(在位1294〜1303)
フランス王フィリップ4世の教会領課税に反対し,1302年俗権に対する教皇の絶対的優越を要求した教書(ウーナム−サンクタム)を発し,フランス王を破門にしようとしたが,フランス王の軍隊によってアナーニに監禁された(アナーニ事件)。3日後市民に解放されたが,間もなく憤死。教皇権の衰退は彼から始まったといわれる。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のボニファティウスの言及
【キリスト教】より
…ゲルマン諸族への伝道はすでに3世紀に始まり,5世紀にはアングロ・サクソン族への伝道もなされ,7世紀に入るとベネディクト会がこれに加わって活発な異民族伝道を行ってきた。ウィリブロードWillibrord(739没)と,のちにボニファティウスBonifatiusと呼ばれたウィンフリードWynfrid(754没)の活躍が特に記憶される。これにより,西方教会はコンスタンティノープルの支配とイスラム教徒の圧迫を排して自立するとともに,古代の伝統を中世に媒介することができた。…
【キリスト教】より
…ゲルマン諸族への伝道はすでに3世紀に始まり,5世紀にはアングロ・サクソン族への伝道もなされ,7世紀に入るとベネディクト会がこれに加わって活発な異民族伝道を行ってきた。ウィリブロードWillibrord(739没)と,のちにボニファティウスBonifatiusと呼ばれたウィンフリードWynfrid(754没)の活躍が特に記憶される。これにより,西方教会はコンスタンティノープルの支配とイスラム教徒の圧迫を排して自立するとともに,古代の伝統を中世に媒介することができた。…
【司教】より
…ブザンソン司教ドナトゥス,ノアヨン司教ムンモリヌス,トリール司教のゲルマヌスとヌメリアヌス,バーゼル司教ラグナカリウスなどいずれもそうである。8世紀に入るとアイルランド人に代わってアングロ・サクソン人たち,すなわちウィリブロードWillibrord(658‐739)および[ボニファティウス]の一行がフリースラントとゲルマニアの伝道に従事するが,彼らの活動によってフランク教会の制度は司教職を含めて大いに整備された。特に747年ボニファティウスの司会した司教会議は,この司教会議の制度,首都司教の地位,司教の職務内容,首都管区会議と司教区会議との職務分掌などを明らかにし,またローマ教皇との制度的関係をも初めて性格づけた。…
【フルダ】より
…ウェーザー川支流のフルダ川が流れる。歴史は古く,ゲルマン人のキリスト教化のために[ボニファティウス]が8世紀中葉に建てたベネディクト会修道院([フルダ修道院])が中心になって発展した。今日の大聖堂St.Salvator und Bonifatiusは,それまでの修道院教会のあとに,1704‐12年ヨハン・ディーンツェンホーファーがイタリアのバロック建築を手本にして造営したもの。…
【フルダ修道院】より
…ドイツ中部にある修道院。744年〈ドイツ人の使徒〉[ボニファティウス]が,ウェーザー川の上流のフルダFulda河畔に建設したベネディクト会修道院。初代院長ストゥルミSturmi(715ころ‐779)のもとにザクセン伝道の拠点をなした。…
【ヘッセン】より
…北部の山間の多数の小盆地は〈ヘッセンのくぼ地〉といわれる。
[歴史]
ヘッセン人の祖先は民族移動期以後マイン川とウェラ川の間に定住したフランクの一支族カッティ族で,8世紀に〈ドイツ人の使徒〉ボニファティウスの布教によってキリスト教化されている。ヘッセンは当初王領地として国王代官に治められていたが,12世紀にチューリンゲン方伯の支配下に入ってから領邦としての独自の発展を始める。…
【ラテン文学】より
…しかし大陸の混乱の影響を受けなかったアイルランドの修道士たちの間で古典の研究と保存の伝統が持続され,7世紀初頭,彼らは大陸に進出して,スイスのザンクト・ガレンと北イタリアのボッビオに修道院を設立,ここが時代を通じて写本作りと研究の中心地になった。イングランドにも7世紀後半に,古典研究を聖書研究に不可欠とするヒエロニムス以来の考えを継承するアルドヘルムとベーダが登場し,その後継者ボニファティウスは大陸に渡って,フランク王国の教会改革に乗り出した。 8世紀中葉にカロリング朝が起こると,カール大帝の下で[カロリング・ルネサンス]が始まる。…
※「ボニファティウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」