亀山天皇(読み)カメヤマテンノウ

デジタル大辞泉 「亀山天皇」の意味・読み・例文・類語

かめやま‐てんのう〔‐テンワウ〕【亀山天皇】

[1249~1305]第90代天皇。在位、1260~1274。後嵯峨天皇皇子。名は恒仁。大覚寺統持明院統の争いがこの時期に始まる。譲位ののち13年間院政を行った。出家後、離宮禅寺としたのが南禅寺のはじまり。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「亀山天皇」の意味・読み・例文・類語

かめやま‐てんのう‥テンワウ【亀山天皇】

  1. 第九〇代天皇。後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁。正元元年(一二五九)即位し在位一五年。譲位後院政をとり、正応二年(一二八九)出家。大覚寺統のはじめ。法名金剛源。建長元~嘉元三年(一二四九‐一三〇五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「亀山天皇」の意味・わかりやすい解説

亀山天皇【かめやまてんのう】

鎌倉中期の天皇。在位1259年―1274年。後嵯峨天皇第3皇子。後宇多天皇に譲位後院政を行い,院政中文永・弘安の役に際会した。1289年出家して金剛源(こんごうげん)と称した。亀山天皇の子孫大覚寺統といい,兄後深草(ごふかくさ)天皇の子孫(持明院統)と交互に皇位を継承するよう取り決められた。
→関連項目後宇多天皇弘長新制後深草院二条後深草天皇八条院領臨川寺

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「亀山天皇」の意味・わかりやすい解説

亀山天皇 (かめやまてんのう)
生没年:1249-1305(建長1-嘉元3)

第90代に数えられる天皇。在位1259-74年。後嵯峨天皇の第3皇子,名は恒仁。母は西園寺実氏の娘大宮院姞子。父天皇のはからいで兄後深草天皇の譲りをうけて即位し,ついで皇子(後宇多天皇)に位を譲って大覚寺統の皇統をひらき,持明院統との対立のもとをつくった。後宇多天皇の在位中は上皇として院政をしいた。この間1274年(文永11),81年(弘安4)にモンゴル襲来があり,上皇は身をもって国難に殉ぜんとの祈願を伊勢神宮にささげた。87年鎌倉幕府は上皇が幕府に異心をいだいているということから,皇位を持明院統の伏見天皇にうつし,さらに89年(正応2)同天皇の皇子(後伏見天皇)を皇太子にしたことから,失意のあまり出家した。法名は金剛源(こんごうげん)といい,離宮を禅寺として南禅寺を創建し禅林寺殿とも呼ばれた。陵所は京都市右京区嵯峨天竜寺にある(亀山陵)。
両統迭立(りょうとうてつりつ)
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「亀山天皇」の意味・わかりやすい解説

亀山天皇
かめやまてんのう
(1249―1305)

鎌倉中期の天皇(在位1259~74)。名は恒仁(つねひと)。後嵯峨(ごさが)天皇の第3皇子。建長(けんちょう)元年5月27日生まれ。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の娘大宮院姞子(おおみやいんきっし)で、後深草(ごふかくさ)天皇の生母。後嵯峨上皇は兄後深草天皇よりも弟亀山天皇を愛し、後深草天皇の子を差し置いて亀山天皇の子(後宇多(ごうだ)天皇)を立太子させた。大覚寺(だいかくじ)・持明院(じみょういん)両統迭立の端緒である。亀山天皇は在位15年で皇位を後宇多天皇に譲り、院政(1274~87)を開始して朝政の実権を握った。文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役のあった緊迫した時期である。鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、評定(ひょうじょう)制を大改革するなどその院政は意欲的であった。出家後離宮を禅寺としたが、これが南禅寺(なんぜんじ)の起源である。嘉元(かげん)3年9月15日没。陵墓は京都・亀山陵。

[黒田弘子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「亀山天皇」の意味・わかりやすい解説

亀山天皇
かめやまてんのう

[生]慶長1(1249).5.27. 京都
[没]嘉元3(1305).9.15. 京都
第 90代の天皇 (在位 1259~74) 。名は恒仁。後嵯峨天皇の皇子,母は大宮院きっ子。幕府のはからいで皇位を兄後深草天皇の子孫 (持明院統) と交互に継承することとなり,正元1 (59) 年即位。亀山天皇の流れを大覚寺統という。在位 14年2ヵ月,文永 11 (74) 年位を後宇多天皇に譲り,上皇として院政をとり,正応2 (89) 年剃髪,法諱を金剛源といった。以後禅宗に深く帰依,正応4 (91) 年離宮を喜捨して禅寺とした。これが南禅寺の起りである。没後山城亀山法華堂に葬られる。禅林寺殿,文応皇帝ともいう。陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町の亀山陵。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「亀山天皇」の解説

亀山天皇 かめやまてんのう

1249-1305 鎌倉時代,第90代天皇。在位1260*-74。
建長元年5月27日生まれ。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。母は藤原姞子(きつし)(大宮院)。大覚寺統最初の天皇。同母兄後深草天皇の譲位により即位。父が院政をおこなう。子の後宇多天皇に譲位して,兄をさしおいて院政をしいたことなどもあり,大覚寺(亀山),持明院(後深草)両統対立がおこる。嘉元(かげん)3年9月15日死去。57歳。墓所は亀山陵(みささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は恒仁(つねひと)。法名は金剛眼。
【格言など】世のために身をばをしまぬ心ともあらぶる神はてらしみるらむ(「亀山院御集」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「亀山天皇」の解説

亀山天皇
かめやまてんのう

1249.5.27~1305.9.15

在位1259.11.26~74.1.26

後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁(つねひと)。母は西園寺実氏の女大宮院姞子(きっし)。兄後深草天皇の皇太子となり,1259年(正元元)即位。72年(文永9)後嵯峨上皇が没し皇位継承問題がおこったが,鎌倉幕府の諮問に対し大宮院は亀山天皇を支持,幕府もこれに従った。74年皇子後宇多天皇に譲位して院政を始め,訴訟制度の改革などにとりくんだ。伝領した所領に八条院領などを加えて大覚寺統の所領の基礎をつくった。87年(弘安10)皇位が持明院統の伏見天皇に移ると,89年出家,法名金剛源。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「亀山天皇」の解説

亀山天皇
かめやまてんのう

1249〜1305
鎌倉中期の天皇(在位1259〜74)。大覚寺統の祖
後嵯峨天皇の第4皇子。1274年皇子後宇多天皇に譲位し,兄の後深草上皇を抑えて院政を行ったため,のち持明院統との間に両統迭立 (てつりつ) の問題がおこった。'89年出家,深く禅宗に帰依 (きえ) し,'91年離宮を禅寺とした。これがのちに南禅寺となった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「亀山天皇」の解説

亀山天皇 (かめやまてんのう)

生年月日:1249年5月27日
鎌倉時代後期の第90代の天皇
1305年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の亀山天皇の言及

【両統迭立】より

…鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。…

※「亀山天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android