ボニファティウス8世(英語表記)Bonifatius Ⅷ

改訂新版 世界大百科事典 「ボニファティウス8世」の意味・わかりやすい解説

ボニファティウス[8世]
Bonifatius Ⅷ
生没年:1234ころ-1303

ローマ教皇。在位1294-1303年。イタリアのアナーニに生まれ,トーディ,スポレトで学び,パリ,ローマで聖堂参事会を務め,1276年ローマ教皇庁に入る。81年には枢機卿助祭,91年には枢機卿司祭となり,教皇特使としてフランス,イタリアで活躍し,また教皇ケレスティヌス5世の退任には決定的な役割を果たした。94年の教皇就任以後,教皇権威高揚,ヨーロッパの平和と聖地解放とを課題としたが,ジェノバベネチアとの和解調停に失敗し,アラゴンのフレデリクのシチリア王即位(1296)を阻止できず,またフランスのフィリップ4世(美王)とは激しく対立した。イタリアでは領地問題でローマの貴族コロンナ家と争い,彼らを武力で制圧した。1300年盛大な聖年祭を開催して教皇の威信を高めたが,翌年フランス国王との対立が再開し,教皇は02年教書〈ウナム・サンクタム〉によって俗権に対する教権の超越的権威を主張したが,フィリップは03年ローマとの和解を拒否した。教皇はフランス国王への破門状を用意したが,国王は先手を打ち,彼の有力な顧問官ノガレGuillaume de Nogaretは傭兵とコロンナ家の私兵を用いてアナーニに教皇を襲って監禁した(アナーニ事件)。3日後住民に救出されるが,健康を害し数週間後ローマで死去した。以後教皇権は急速に衰えるが,彼の教会法上の貢献は,いわゆる《第六書》公布(1298)に見られるように,今日まで永続している。ローマ大学創設者,画家ジョットの後援者としても著名である。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボニファティウス8世」の解説

ボニファティウス8世(ボニファティウスはちせい)
Bonifatius Ⅷ

1235?~1303(在位1294~1303)

ローマ教皇。イタリア人。教権優位の主張をつらぬき,ヨーロッパ諸国の君主審判者として行動したが,1296年フランス王フィリップ4世と教会課税について争い,1303年アナーニ事件屈辱を受け,不遇のうちに死んだ。その回勅「ウナム・サンクタム」(02年)は教権の霊的権威の至上性を説いている。彼の没後,世俗権が伸張し教権は衰え始めた。

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世界大百科事典(旧版)内のボニファティウス8世の言及

【教皇】より

…そのためローマ教皇とドイツ皇帝との対立が激化していった(叙任権闘争)。聖と俗との戦いから,インノケンティウス3世(1198‐1216)による全西欧キリスト世界の霊的支配に至って中世の教皇職は絶頂に達したが,ボニファティウス8世Bonifatius VIII(1294‐1303)の挫折後,フランス人諸教皇はフランス国王権の下に教皇職の霊的地位を失い,教皇の〈アビニョン捕囚〉が起こった。続いて全西欧キリスト教世界の教会大分裂(シスマ)が起こり,真の教皇はローマの教皇かアビニョンの教皇か,同時代人も教会史家も簡単に答えられないほど教会は混乱してしまった。…

【アナーニ事件】より

…ローマ教皇ボニファティウス8世とフランス王フィリップ4世との間の政治的事件。アナーニAnagniはローマの南東約60kmの所にあり,教皇ボニファティウス8世の生地であり,彼の別邸があった。…

【カペー朝】より

… フィリップ4世(端麗王)の治世(1285‐1314)には,王国慣習法(基本法)の形成,国王評議会と三部会の組織化など,支配の客観化がすすみ,下級貴族や市民出身のレジスト(法曹家)を支柱とするような政策に転換する。教皇ボニファティウス8世との抗争に際して初めて全国三部会を召集し,教皇をアナーニに急襲(1303)し,教皇座をアビニョンに移し(教皇のバビロン捕囚,1309‐77),ガリカニスム(国家教会主義)の端緒をつくったり,国内のテンプル騎士団を解散(1312)して,その所領・財産を没収して王国財政の強化をはかったのも,彼の現実主義的な政策のあらわれといえよう。 フィリップ4世の3人の男子(ルイ10世,フィリップ5世,シャルル4世)はいずれも世継ぎの男子がなく,1328年,シャルル4世の死とともに直系カペー朝は断絶。…

【教皇】より

…そのためローマ教皇とドイツ皇帝との対立が激化していった(叙任権闘争)。聖と俗との戦いから,インノケンティウス3世(1198‐1216)による全西欧キリスト世界の霊的支配に至って中世の教皇職は絶頂に達したが,ボニファティウス8世Bonifatius VIII(1294‐1303)の挫折後,フランス人諸教皇はフランス国王権の下に教皇職の霊的地位を失い,教皇の〈アビニョン捕囚〉が起こった。続いて全西欧キリスト教世界の教会大分裂(シスマ)が起こり,真の教皇はローマの教皇かアビニョンの教皇か,同時代人も教会史家も簡単に答えられないほど教会は混乱してしまった。…

【キリスト教】より

…ゲルマン諸族への伝道はすでに3世紀に始まり,5世紀にはアングロ・サクソン族への伝道もなされ,7世紀に入るとベネディクト会がこれに加わって活発な異民族伝道を行ってきた。ウィリブロードWillibrord(739没)と,のちにボニファティウスBonifatiusと呼ばれたウィンフリードWynfrid(754没)の活躍が特に記憶される。これにより,西方教会はコンスタンティノープルの支配とイスラム教徒の圧迫を排して自立するとともに,古代の伝統を中世に媒介することができた。…

【ローマ[市]】より

…13世紀初めのインノケンティウス3世がローマにおける教皇の地位の確立を図ったが,オルシーニ家やコロンナ家などのローマの主要な貴族は互いに熾烈な争いを繰り返し,また教皇とも対立し,さらに歴代教皇は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との厳しい闘争を経験しなければならなかった。ボニファティウス8世は1300年を最初の聖年に定め,ローマは巡礼であふれ,ローマ大学が創設された。しかし,教皇首位権を主張したボニファティウス8世は,フランス国王と対立することになり,1309年教皇庁はアビニョンに移され,教皇権の衰退とともにローマ市もさびれていった。…

※「ボニファティウス8世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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