日本大百科全書(ニッポニカ) 「恵観山荘」の意味・わかりやすい解説
恵観山荘
えかんさんそう
1651年(慶安4)関白を辞し翌年剃髪(ていはつ)して恵観と号した一条昭良(後陽成(ごようぜい)天皇皇子)が、西賀茂(にしかも)(京都)の山荘に営んだ茶屋。入母屋造(いりもやづくり)茅葺(かやぶ)きの田舎家(いなかや)風な外観を示し、江戸時代初期における貴族の茶屋の特質をよく表す遺構として貴重である。内部は、主室長四畳(ながよじょう)、次の間六畳、三畳、三畳、四畳半の諸室が一列に並び、両側に一間幅の縁座敷(入側)が添う。主室は一間床と炉を備える。また四畳半と縁座敷との境に設けられた長炉(ながろ)は、その上の煙道から暖気が天井裏に導かれて屋内を暖めるようくふうされている。主室襖(ふすま)の「月」、次の間襖の「の」の字の引手は京極(きょうごく)高広の娘の筆と伝えられ、また三畳の間の二階棚と脇(わき)に下地窓を配した構えは金森宗和の好みになると伝えている。
[中村昌生]